首輪
雨月夜
第1話
「人を殺したいと思ったことがあるか?」
そう聞かれることがあるとすれば、私は迷わず「はい」と答えるだろう。
しかし私は、一度だって人を「憎い」と思ったことはない。憎いという複雑な感情は、私には理解出来ないのだ。
憎しみとは、他者に興味を持ち、期待をするからこそ生じるモノであるように思う。憎しみを語る人を見ると、何をそんなに期待して喚いているのかとしか感じられないのだ。
そう。私は根本的に、人という生き物に興味がない。
人間と、他の生物。例えば、犬であったり、雀であったり、飛蝗であったり。それらの生命体と「人間」の差が、よくわからない。強いて言うなら、種族が違うという程度だろう。私にとっては、基本的に、犬も人間も大差ないのである。
だから、憎しみなんて抱くはずもない。期待もしなければ、失望もしない。
向こうから何か損害を与えられれば「不快感」を抱くことはあり、そういう相手とは距離を取りたいと願うが、それ以上でもそれ以下でもない。その人が目の前から消えれば、ただの「過去の記憶」というデータの1つに過ぎない。
しかし、それでも、私は人間である。
人間と同じ姿形をし、曲がりなりにも同じ手段を以てコミュニケーションを図ろうとする「私」は、どの種族の生命体かと言われれば「人間」なのだ。
だから私は、人間として生きている。
人様の間で、何とかこの空虚な中身が暴かれぬよう、細心の注意を払って「人間」を演じているのである。
家族の中では明るい娘に為り、同級生の中では優しい友を演じ、恋人の前ではか弱い女の振りをする。酷く滑稽な生き物ではあるが、私自身、それ以上にもそれ以下にも成れないのである。
何と無様な生き物であろうか。これでは、生きていても死んでいても変わりはしない。実際、私はいつでも「死んでも構わない」と思っている。
それでも未だに生きているのは、気味の悪い娘の中身に薄々気がつきながらも育ててくれた両親の為であり、どこかずれた事ばかり言う友人の「また会おうね」という言葉を守る為であり、それらに縋らずには生きられない私の弱さの為である。
しかし、そんな空虚な生き物は、分不相応にも「恋愛」等と謂う人の営みに手を出してしまったのだ。
ある日突然現れた明るい男に、私は恋をした。
理屈何てなかった。只々、女と謂う生命体としての本能が疼いただけであるかもしれないが、兎に角意味もなく心惹かれたのだ。
そして、その男もまた、私に「恋愛」という営みに属する情を抱いた。
2人は晴れて恋人と呼ばれる関係性に成ったのである。
「あれ?今日のオムライス、美味しくなかった?」
思考の海に潜り込んでいた私は、その言葉にハッとして、一旦思考を中断する。
考え出すとグルグルと考えてしまい、現実から乖離して戻らなくなるのは、私の長年の癖だ。気がつくと、オムライスを前にしてスプーンを持った儘、動作が止まっていた。
「そんなことないよ!いつもの癖が出ちゃったみたい。ごめんね」
私がお道化て笑うと、男も釣られるように笑った。実に、笑顔の似合う男である。
今日は、久しぶりに2人で食事をする日であった。
2週間ぶりという事実が、果たして「久しぶり」という言葉に該当するか否かは甚だ疑問ではある。しかし、私はずっとこの日を楽しみにしていた。だから、兎に角「待ちわびた日」という意味では、確かに久しぶりであるのだ。
男と恋人同士になってから、幾度となく2人で食事をした。
不器用な私を見かねてか、いつの間にか男が料理を提供してくれることが当たり前になっていた。とても、恵まれているのだと思う。幸せなことなのだろう。
だから私は、それに合わせて「出来ない女」を演じ、相手が提供してくれる幸福に満足気な笑みを浮かべる。しかしこれは、嘘をついているのではない。実際に「美味しい」「嬉しい」という感情がない訳ではないのだが、如何せん「演じる」事でしか何も表出できない私は、常に演じている意識が消えなかった。
目の前で、男が笑う。
大きな口で食物を咀嚼したり、明るい声で楽しそうに話したり。本当に、どこまでも明るい生物だ。
私は、そんな男を観ていることが、殊の外好きだった。
自分の対極にいるようなその男に、何故惹かれたのかはよくわからない。太陽に焼かれる陰鬱の様に、何とも言えない苦しみに襲われることがあっても尚、好きなのだ。
伽藍洞の自分に、そんな感情がある事自体、私は知らなかった。空っぽの器には耐えられないような熱量の其れを、私はどうしようもない儘に抱え続けている。
それが、歪さの根源だと思う。
私が殺したくなる人間は、唯一、この男のみであるのだから。
大きく開くその口に、ナイフを刺し込みたい。綺麗な世界を映すその目を、スプーンで抉り出したい。優しく触れるその手を、私の手で圧し折りたい。いつでも温かいその身体を、包丁で切り刻みたい。
私には、優しく温かい「愛」が理解出来なかった。
元々歪な化け物が、どうしたところで、程よく優しく愛することは出来ないのだ。
全てを、私のモノにしたい。他の何も見て欲しくないし、触れて欲しくない。私以外の事を考えて欲しくもない。
しかし、実際にそうなってしまったら、それはもう私の愛した男ではない。
だからこそ、そのままの男を、殺したい。
踏み躙って、殺して、喰らって。
残った骨の前で、私は初めて泣くのだろう。
それは、抗い難い欲求だった。「憎しみ」等という複雑怪奇な感情よりも、もっと根源的で、強烈な欲望である様に思う。
だから私は、人を殺したいと思ったことがあるかと聞かれれば、一切の迷いもなく「はい」と答える自信があるのだ。
それを実行に移さないのは、単純に私が伽藍洞で、弱いから。
弱すぎる私は、男といる温かく優しい幸せを棄てる事は出来ない。自分の衝動に身を任せる強さもない。
どうしようもない自分を持て余し、今日も私は空虚に笑う。
何故、こんな化け物が、今日も生き永らえて居るのだろう。
一番殺さなくてはいけないのは、私自身の筈なのに。
「そう言えば、今日誕生日だよね。」
男の言葉に、私は再び現世に戻る。
その声が、言葉が。唯一私を現世に繋ぎ留めているのかもしれないなんて、下らないことを思った。
「言われてみれば、そうだね。」
カレンダーを横目に見て、私は言葉を表出する。自分の誕生日くらい覚えていたが、恋人同士という関係性に於いて、その話題をどう扱うべきなのかを、私は知らなかった。
私の中には何も無く、正解も分からない。そういう時は、とぼけた振りをするに限る。
すると男は「相変わらずだなぁ」と苦笑する。どうやら、とぼけた振りは、間違いではなかったらしい。
其の事に安堵していると、男は机の下から小さな箱を取り出した。
「はい、誕生日プレゼント!お誕生日おめでとう。」
当然の様に笑って、其れを私に差し出す男の一連の動作に、私はまた戸惑う。この場合は、どう演じるのが正解なのだろう?
正解等存在しない事は何処かで解っているが、それでも探し求めずには居られなかった。
この男を失ったら、私は本当に、只の伽藍洞を抱えた化け物だ。
「えぇ!本当に!?嬉しいなぁ!!」
だから、なるべく大袈裟に喜んで見せる。
繰り返しになるが、嘘を吐いているつもりはない。ただ、何かを表現するには、演じるしかないのだ。
恐る恐る受け取って、嬉しそうに、丁寧な手つきで小箱を開ける。一連の動きも、演じる上では重要だ。
如何にかして、男に「私が喜んでいる」事を伝えなくてはいけない。その為には、一瞬たりとも気を抜いてはいけないのだ。
小箱の中身は、小さなネックレスだった。
私は、アクセサリーが好きだ。少しでも自分の空虚さを隠す事が出来る錯覚を欲して、アクセサリーで飾る事を好んでいる。
そんな私の好みを把握し、それに合わせた物をくれる。男の優しさが滲み出ているような贈り物だ。
「わぁ、素敵!」と感嘆して、私は男の方を向いて、思いっ切り笑う。
「ありがとう、大切にするね!!」
男の満足気な笑みを確認して、私はホッと息をつく。今回も、失敗しなかった様だ。
男の選んだネックレスに、視線を落とす。
キラキラとして繊細なゴールドのチェーン、可愛らしいハートのモチーフ。シンプルで、でも愛らしくて。優しい桃色のハートが眼を惹く、万人に愛されるデザインだ。まるで、男の存在そのものの様である。
そう思うと、このネックレスも、引き千切りたくなる。
今の綺麗なまま、引き千切って粉々にして、飲み込んでしまいたい。誰の目にも触れさせたくない。下らない独占欲だ。でも、この下らない欲求は、他のどんな感情も凌駕するものだと思う。
本当に、どうしようもない。
内心で自嘲しつつ、ネックレスを宝物の様に小箱に戻して、そっと横に置く。
弱い弱い私は、結局コレを身に着け、それに「幸せ」を感じて笑うしかないのだろう。
「人間を殺したいと思ったことがあるか?」
そう聞かれれば、私は迷わず「はい」と答える。
しかし実際に、弱い私に「人間」という生命体を殺す度胸があったとするならば、殺す相手は私自身であろう。
いつか、この男の存在そのもののようなネックレスで首を絞めて死ぬ日を夢想しつつ、私は食べかけのオムライスを再び口に運んだ。
首輪
(その細い輪で私を繋いで)
首輪 雨月夜 @imber
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