とんかつ

 東京都内のとあるとんかつ屋の前に、二人の会社員がいた。

「ここ、ここに入りたかったの!見て!この超特上ポークって!」

「あー、はいはい。」

 二人は、ブランド豚を売りにしているらしきその店に入った。


 会社員たちは、机を挟んで座り、定食を注文した。ほぼ食べ終わっているのに長居する中高年の女性らとか、さっさと食べようとしている雰囲気の単独客とか、先客がいる。ただ、いずれも少なくとも皿が出た後だった。これなら、あまり待たされずに済みそうである。

「ごめんね、付き合わせて。比具くんくらいしかつかまらなくって。」

「いえ、先輩でもとんかつ屋に一人で入るのをためらうなんて、珍しいものを見せていただけました。」

「比具…お前…」

「いえ、最近笑えることがなくて…うちの姉がえらいことに…」

 比具は、言ってからしまったと思った。快活な撫汰先輩は、悪気なく迂闊なことを周りに喋ってしまいがちだからだ。密かな交際がバレて面倒なことになった先輩や、夫婦仲について尾鰭付きの噂が流れてしまった上司もいる。さて、どうしたものか。

「比具くん、お姉さんいたんだ。どうしちゃったの?」

 嘘をついても始まらない。先輩がこれほど興味津津な表情をしているなら、どうせまたいずれ訊かれる。比具は、諦めた。

「長期で入院することになりました。これ以上は聞かないでください。」

「入院かぁ…それならいいよ…」

 比具は、憂いを丸出しにした先輩の表情を見て、いつもと違う何かを感じた。

「あたしの弟なんか行方不明だよ。オタクでひきこもりのくせに、外に出たと思ったら。」

 先輩の話に、比具は反応せざるを得なかった。

「姉もオタクでひきこもりでした…」


 重たい空気を払うかのように、ぎこちない動きの店員がとんかつ定食を運んできた。しかし一つずつだ。最初の一組は、比具の前に置かれた。改めて、気まずい空気が漂った。だが、それも2分ほどのことであった。如何に店員の動きが悪くとも、さすがに運ぶだけのことに大した時間はかからない。もっとも、その遅さの故に、比具たちは身動きできず会話も止まった微妙な空気の中に置かれ、それなりに苛立ってはいたようだ。


 厨房に戻った店員に、店主が声をかけた。

「五反田、クビ。」

 うろたえる店員五反田に、店主は続けた。

「今まで見てきたけど、仕事が遅過ぎる。皿洗いをやれば半分割るし。もう限界。明日から来なくていいよ。今日も、もう帰っていい。」

 私生活上の問題で前の勤務先を解雇され、バイトを掛け持ちしてきた五反田は、ついに一つの勤務先を失った。

「尊師…お救いを。」

 更衣室に着いた五反田は、己の神に祈るばかりであった。


 とんかつの味に、会社員二人は我を忘れていた。先輩…つまり撫汰はキャベツの追加を頼もうと席を立った。そのとき、食べにくそうにしている外国人に気付いた。

「どうしました?」

「私は箸に慣れていません。それ故、私にはこれを食べることが難しいのです。」

 撫汰は、店員に掛け合い、ナイフとフォークを出させた。外国人は、わざわざ席を立ち、撫汰に礼を言いに来た。

「ありがとうございました。私の故国には豚を食べない人が大勢いました。それ故、豚は私には珍しい食べ物です。私はそれを試しました。あなたのお陰で、とてもおいしいです。」

 話の続きを聞きたい。撫汰は、こちらに移らないかと外国人に申し出、快諾された。経緯を大体見ていた店員も、咎めなかった。

 この外国人は、内戦から逃れて来たそうだ。難民申請中で、日本を選んだ理由は明らかでない。ただ、愛する人を失って故国に留まる理由がなくなったとは言っていた。スパイが中枢にいるような軍隊の支配は、ひどいものだったらしい。最終的にどこの国に住むかも、まだわからないのだそうだ。難民などそんなものだと笑う外国人の瞳は、笑っていなかった。


 その頃、店の裏には、配送業者がやって来ていた。

「なんじゃーコラー!ボケがー!」

 勢い良く店を出た五反田が、配送業者とぶつかったのだ。配送業者の西大寺谷は、荷物を大事に抱えながら凄んだ。五反田は、平謝りしている。

「役立たずが!死に晒せ!」

 五反田は、その場で泣き崩れた。


 西大寺谷は、薄暗い裏道から出るとき、見えない何かにつまづいた。それは、倒れたビラ配りの身体だった。

「おい!」

 警察官が西大寺谷を呼び止めた。西大寺谷は、そこでやっと事態を呑み込み、一応謝った。警察官は、注意しろとだけ言って西大寺谷を放免した。実際問題として大して困るようなこともなかったのと、おそらくはそれに加えて西大寺谷が放つ気の故である。

「えー、所持品によると、美原紳四郎…」

 警察官は無線機に向かって喋る。その途中で、救急車が着いた。この件については、翌日の新聞に記事が載ることになる。その記事は、違法なビラ配りをしていた日雇いバイトが路上で殴られて重体だという、雑報である。

 西大寺谷は、車に戻って八百旗頭に言う。

「あーむかつく。あんな肉だけで俺の給料より高いっちゅーに。」

 既に様々な意味で疲れている八百旗頭は、運転席から達観したかのような答えを返した。

「むかついても腹は膨れんで。次いこか。」

 配送車は、去った。


 そんな外の出来事と無縁なとんかつ屋に、一人の客が増えた。店員との挨拶ぶりから、どうやら常連だと窺われる。その顔を見て、先客の一人が気付いた。

「あなたAV女優でしょ!」

 他称AV女優は、同業者と待ち合わせていた。先に食べていた方はカウンターから振り向き、大声を出した老いつつある女性の方に向かった。

「AV女優だとして、何か問題があるの?」

「ふしだらなことを。不純よ!不埒よ!不潔よ!」

「はいはい、不埒不埒。それが、何か?」

「あんなことを平気でやるなんて許されないでしょ!」

「そうだね。そうだといいね。で、あんた、なんであたしがAV女優だって知ってんの?」

「そ…それは…」

 賑やかな客の声は小さくなった。お仲間たちは、何気なく会計を済ませていた。正確には、大体の額の札を店員に渡し、釣りは要らないとまで言っていた。店員も事態を見ているので、余計なことを言わなかった。賑やかな客は、連れたちに引っ張り出された。


「……なんかすごいね。」

 そう口走る撫汰先輩は、そろそろ食べ終わりそうな雰囲気であった。むしろ比具がのろまで、とんかつが2片残っている。

 他称AV女優たちは、何事もなかったこのようにとんかつを貪っている。そしてその合間に、会話とも独り言ともつかない言葉が出てくる。

「好きでやってるんじゃないんだよ…なっちまったんだよ…」

「ヘルスの方が本業なんだよ…女優なんていいもんじゃないよ…」

 異常に濃厚な化粧が、この二人の年齢を推測させない。闇に紛れるかのように地味な服装の化粧との不釣合いっぷりも、二人の正体を判り難くしている。だが、二人は、高校を出たばかりなのである。そんなことを気にする者も、誰もいない。店主の妻らしき店員は、言われるままにビールを運んでいる。


 そんな店に、珍客が現れた。このフトラーズを飲むと脂ものを食べても太りません、どうですか買いませんかという押し売りである。店主はすぐさま気付き、厨房から出てきた。珍客は腕をつかまれた。店主は、警察を呼ぶか、それとも誠意を見せるかだとその犯人に申し渡した。犯人と店主は裏に隠れた。

 犯人は、構わず店主にもフトラーズを勧めた。店主は、試供品をよこせば今日は見逃す、その場合来週来い、あと、いきなりは売るなと申し渡した。珍客は、その申出に従った。

 押し売りが裏口から追い出されると、そこにはまだ五反田がうずくまっていた。信じるものがあろうとなかろうと、ダメなものはダメなのであった。


 撫汰たちは、外国人にあれが日常ではないことを説明した。そして先輩の方を向き、比具は言う。

「なんか味がわかんなくなっちゃいましたよ。」

 撫汰は答える。

「またゆっくり出直そう。豚肉、おいしいし。」


 別の一人客も、カウンターで黙っていた。その客は考えていた。レンズ越しに切り取った景色と現場は違うものだな、と。そういうものだとたやすく理解できるお話でも、ただ知っているのと見るのは、同じではなかった、と。そして、細かいことがどうであれ、要するに結局豚は食われるのみなのだな、と。

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