5

『マジでピンチなんだ、助けてくれ』

 無言になった二人がそのまま一時間ほど機械的に足を動かし続けていると、ゴードンからのメールが沈黙を破る。鳴ったのはアビィのスマホだ。

『足を滑らせて挫いた。現在地のGPS情報を送る。さっきは悪かった』

 ここで「さっきは悪かった」なんて書いてしまうところがバカなんだよな。書かない方がむしろ自然だ。これじゃ助けてもらうために自分を枉げてるみたいじゃないか。

「こうやって書いちゃうところがバカよね」

 アビィが同じことを考えていたので、デイヴィッドは笑った。きっとほんとうに悪意はないのだ。そう信じたい気持ちになった。

「でもこれ、ぼくたちがいるとことは逆の斜面じゃない?」

 ゴードンは駐車場に戻るために登りと同じルートを使って帰ろうとしたのだろう。わざと違う道を選んだデイヴィッドと全く違う位置にいるのは当然だった。一回山頂まで戻ってから再度ゴードンのあとを追うか、現在地から直接ゴードンのいる場所に行く方法はあるだろうか? 地図を見ながらデイヴィッドは思案する。

「助けてあげるの?」

 一言も口にはしないが、こんな山でもなんども昇り降りすれば疲れるはずだ。アビィの足首を見て、デイヴィッドは標高を維持したまま山の反対側に向かうことに決めた。直線距離では二キロくらいなんだし。若さとはとても愚かな判断をしていることにすら気づけないことだ。

「運転手がいないと困るだろ」

「足首挫いてるんじゃどの道運転できないと思うけど」

 軽口を叩きながら木道から降りる。道なき道を通らなければ山の反対側には行けない。下草や落ち葉が湿っているのがトレッキングシューズごしの感触でわかる。そろそろ本当に寒くなってきた。時刻は午後二時くらいだ。ということはここから気温が上がることはない。

「ゴードンに返信した? 今から行くって」

「したわよ。でも返信がなくて」

 まさか、あのデーン人が気絶してるわけがない。でもちょっとだけ不安になる。

「どのくらいで着くの?」

「そうだな、四〇分くらいだと思いたいけど」

 アビィが空を見上げていた。

「嘘でしょ」

 雪が降ってきた。

 雪深い中西部でも九月に雪が降るなんて聞いていない。積雪を観測するのはどれだけ早くても十一月。いくらなんでも異常だ。デイヴィッドは自分のせいだと思う。

 はじめは手をかざすと数秒に一回雪のかけらがひとひら落ちてくるくらいだったのが、五分もしないうちに雨具を着る必要があるくらい勢いを強くした。

「なにこれ、こんな予報あった?」

「それどころか、今もマラソン郡じゃ雪なんか降ってないことになってる」

 スマホで調べた天気予報の画面をアビィに見せる。ウォーソー周辺の現在の天気は曇り、華氏六四度だ。

「じゃあどういうこと? この山だけ雪が降ってるってこと? そんなことってありえるの?」

 ぼくに訊かないでほしいとデイヴィッドは思う。

「早くゴードンを見つけないと」

「待ってよ、こんな雪の中歩き回るつもり?」

 早くも積もり始めた雪は踏み固められた登山道を白く覆って、ほかの部分と区別がつかなくなりはじめていた。

「待ってたら止むと思う?」

「わからない、けど」

 デイヴィッドはかまわず前進する。アビィがしぶしぶついてくる。ちゃんとしたトレッキングシューズを買っておいてよかった。そうでなければ雪が染みて足が濡れていただろう。

 登りはあんなにも爽快だったのに。空気は新鮮で、少しだけ冷たい空気は運動するとちょうどいいくらいだった。今は暑く蒸した体温はレインコートで逃げ場がない。顔や手首などの露出した部分を通して不快な冷気の通り道ができているのを感じる。フードを被っていても雪の水分が顔についてうっとうしい。使わないつもりで持ってきた防寒用の上着はアビィに着せた。ゴードンの装備はどれくらいなのだろう。アビィに訊いてみたが、彼女も知らないと言う。死ぬのかな、あいつ。三人で山に行って二人で帰ってきたらみんなどう思うだろうか。

「ちょっと、もう無理だってば」

 アビィが何度か雪で足を滑らせかける。まだしっかりと降り積もっていないから。「なんでそんなにはしゃいでんのよ」

 デイヴィッドは自分がはしゃいでることに指摘されて初めて気づいた。でもしょうがないじゃないか。それは、

「ぼくが《冬の子供たち》だからだよ」


 探していたのはこの居心地の良さだ。確信を持ってデイヴィッドは木の枝に積もった雪をすくうと、そのまま口に入れた。味がある。冬の味だ。落ちてくるすべての雪片を個として認識できる。耳をすませば森の和音が聞こえる。根音ルートは無音だ。

「なにそれ、ボーイスカウトの進歩記章かなにか?」

 やっぱり違ったのか。落胆してデイヴィッドは肩を落とす。アビィは《冬の子供たち》ではなかった。

「《冬の子供たち》はそういう種族だ。冬の入り口に生まれて、人間と同じ世界に生きて、きみたちとは違う地獄に行く。ぼくのママもそうだった」

 アビィがたじろいで、ほ乳類以外の生き物を見るときの目でデイヴィッドを見る。

「なに言ってんの、あなた、どっからどうみても

「ベイツ型擬態だよ」

 デイヴィッドは《冬の子供たち》としての歴史を幼いころからさかのぼって語る。今まで誰にも語ったことのない秘密を。

 二人の頭にいまゴードンのことは浮かんでいない。どこに向かっているのかも意識していない。雪は空から降ってくるだけでなく、風によって地面からも吹き上げられる。白く飛んだ視界がループしている。カエデ、カエデ、カシワ、ツガ、カエデ、カエデ、カシワ、ツガ、景色が繰り返すたびに露出した緑色の面積は減っている。

「言い訳にしては壮大すぎるわ」

「信じてくれないのか?」

「証拠がないもの。寒さに強いのも体温が低いのも個人差だし、感情を凍らせることができるのだって、外から確かめようがない」

 それに、あなたのママがパパに殺されたって話もね。アビィは小声で付け加える。

「あなたのママが亡くなったのは不幸な巡り合わせのせいで、パパと上手くいかないのはエディプスコンプレックスだわ。あなたのパパがあなたを愛していることくらい、誰でもわかるわよ」

「そうだろうね、きみのママもたいそうきみのことを愛していることだし、ゴードンが凍死すればゴードンのママは悲しみのあまり自殺するかもしれない」

「デイヴィ!」

「そんな風にぼくを呼ぶな!」

 繰り返し繰り返し踏まれた雪は黒く汚れて道筋を作る。デイヴィッドの大声で雪のかたまりが木から落ちる。アビィはそれでもひるまない。

「じゃあ、この雪を止めてみせてよ。あなた、《冬の子供たち》なんでしょ」

「いやだ」

 少なくともあと数時間はこの雪を止めたくなかった。全世界がこの雪の世界にとらわれて内側からめくれ返るのを待つつもりだった。

 そうは行かなかった。ついにアビィが気づいた。アビィを置いていく勢いで歩き続けるデイヴィッドを、アビィは鋭く叱責するように後ろから呼び止めた。

「ねえ。わたしたち、同じところを歩いてる」


 人間の重心は片側に傾いている。雪によって視界が制限され、目標物や方向感覚が失われた状態で直進しようとすると、この重心の傾きによって進路は常に一方向に曲がり続ける。直進しているつもりでも、その足跡は大きな輪を描き、同じところを何度も歩くことになる。これを環形彷徨リングワンダリングという。

 デイヴィッドもアビィもそんなことは知らなかった。アビィはおびえて、とっさにスマホを開いた。電池切れ。デイヴィッドもスマホを取り出す。まだ電池が残っている。安心して地図アプリを開いた瞬間、画面はふっつりと暗くなった。リチウムイオン電池は低温環境下に置かれると内部抵抗が上がり、作動電圧は低くなる。その状態で地図アプリを起動したりインターネットに接続しようとして負荷をかけると、急激に電圧が低下し、完全放電を防ぐためにバッテリーの保護回路が作動して動作を停止する。iPhoneは雪山に向いていない。もちろんそんなことは知らなかった。

 パニックに陥った二人は吹雪から逃れるために歩き回った。かれらの足跡はある鉄塔巡視路に沿っていたが、標示はもちろん雪に埋もれていたからこれは偶然に過ぎない。デイヴィッドが洞窟を見つけたときアビィは反射的に泣き出しそうになった。定義上、入り口の高さより奥行きのほうが短いものを洞窟とは呼ばない。岩陰という。それでも、二人にとってそれは洞窟だった。

 諦めがつかないデイヴィッドは何度かスマホを再起動しようと試みる。モバイルバッテリーに接続してまた試す。点かない。十分に電圧が高まっていないからだ。保護回路が起動を許すくらい電圧を高めるには、接続したまま数時間放置する必要がある。あるいは体温で温める必要が。温めるための体温が残っていればの話だった。

 アビィはぐっしょりと重くなったレインコートを脱ぎ捨てる。気持ち悪かったからだ。デイヴィッドもそうした。体の震えが止まらないくらい寒い。デイヴィッドが見たことのある映画では遭難者はどうにかして焚火を炊いたり、コニャックで体を温めたりすることができていた。ここにはなにもない。冷え切った麻婆豆腐をアビィと二人で分け合って食べた。あと五倍唐辛子入れてくれてればな、と思う。だが、カプサイシンには長期的に見れば体温を上げる効果があるが、短期には発汗、呼吸数の増加、血管の拡張をうながして体温を下げてしまう。もちろんこれも知らなかった。

 《冬の子供たち》は冬を生きるすべを知らなかった。人間の世界で、それも中西部で育ったからだ。

 それでも岩陰は風を防いでくれた。雪もある程度は侵入してくるが、我慢できる程度だ。腕時計は午後六時を指している。じきに夜がくる。雪は反射率が高いので、雪の日の夜は明るいと思われているが、ここは森の中だ。

「死ぬのかな」

 アビィのパニックはすでに収まっていた。感情鈍麻は低体温症の典型的な症状だ。うまくひとつの考えに集中できない。それでもデイヴィッドは考え続けていた。内側まで濡れたレインコートをふたたび使うのは得策ではない。そうだ、ブルーシートがある。素人にしては上々なパッキングのおかげで、鞄の中身は濡れていなかった。

「アビィ、入って」

 ブルーシートでアビィの肩を包んだ。デイヴィッドも一緒に入ろうとすると、アビィが体を少し遠ざけた。デイヴィッドは深く傷つく。こんな状況で、まだ外聞が気になるのか? デイヴィッドの表情が見えたのか、アビィが肩を寄せてきた。こんなに気まずいゼロ距離なんて望んでいなかった。きつくブルーシートを二人の体に巻き付けた。

 デイヴィッドが死んだらパパはどんな反応をするんだろう。凍死体はフレキシバクター・カラムナリスに侵された金魚の死体よりよっぽどきれいなはずだ。

「ねえ、やっぱりあなた、《冬の子供たち》なんかじゃないわよ」

 アビィの呼吸は非常にゆっくりだ。体の震えは止まっている。

「雪を降らせることも止めることもできないし、体温が低いのは体質ね。感情をコントロールしてるんじゃなくて離人症の気があるだけ。それに、あなたのママがイチゴを凍らせたのは、液体窒素を使った初歩的なマジック」

 仮にそれが事実だったとすると、デイヴィッドの人生の意味が塗り替えられると思っているんだろうか。デイヴィッドは笑って聞き流す。デイヴィッドは《冬の子供たち》なのだ。パパがママを殺したというのは、象徴的な意味じゃない。それでもママがパパを愛していたことは。デイヴィッド、デイヴィッド、デイヴィッド。よくこんな名前付けたな、パパ。 デイヴィッドは声を上げて笑ってしまう。実は泣いているだけだ。アドレナリン酸化物が幻覚を見せているだけだ。

 時間も雪の中に溶けていく。そろそろデイヴィッドのパパは子供たちが帰ってこないことを不審に思っただろうか。連絡すら取れないことに焦っているだろうか。

 デイヴィッドはアビゲイルの手をそっと握った。ロマンチックな気持ちからではない。この状態で死ねば手はほどけなくなる。死後硬直を利用してゴードンやパパに嫌がらせをしたくなったのだ。アビィに理由を聞かれたらそう言い訳するつもりだった。

「雪は止むし、助けも来るよ。絶対に」

 デイヴィッドとアビィは岩陰の出口をずっと見つめている。さっきまで入り口だったのと同じ穴を、今は出口と呼んでいる。

「あなたのパパが助けに来るの?」

 アビィの口調はとろんとしている。もう二人とも眠くて仕方がない。

「パパは来ないよ。ぼくのことを愛してないから」

 それも仕方がないことだ。パパは人間で、デイヴィッドは《冬の子供たち》なんだから。

「そう、そう思いたいのね」

 アビィがつないでない方の手でデイヴィッドの頬を撫でる。

「あなたのパパがなんであなたにデイヴィッドって名前を付けたかわかる?」

「告発だろ」

「ちがうわ」

 眠りに落ちる寸前、デイヴィッドは確かにこう聞いた。

「『ダヴィデ』がヘブライ語で『愛されるもの』を意味するからよ」

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