第重話 苺味ジャムの朝 (2018.12.11)AM:朝


 布留川霧流はベッドから身を起こす。隣で眠っているのは初瀬総野だった。昔の初瀬は自分より先に起きるのが常だった。布留川は、それが不健康からくる不眠症であったことを知らない。理由こそ初瀬本人の口から語られたことはない。しかし、長い付き合いの中でなんとなく察していた。今は彼がぐっすりと眠っていることに安堵する。――同等に、変わってしまった、と思ってしまう。

 手を滑らせて初瀬の髪の毛を指で遊ぶ。そう長くもない、よく居る会社員にありがちな程度の長さ。耳元へ視線を寄せれば二十歳前に開けたピアスホールは閉じかけている。癒えていく肉体は布留川自身も例外ではない。許される範囲での樹脂ピアス。変わりたくないという僅かな抵抗も、もしかしたら、醜い何かなのかもしれない。左手の指に収まっているプラチナリングを見やる。今年の四月に初瀬から貰ったものだった。

 初瀬から貰ったプラチナリングを、左手の薬指に嵌めることができない。世の中がそれを許さない。この感情が間違っているものだとしても、初瀬だけは赦してくれた。重ねた罪も、壊した常識も、無くした倫理観も、初瀬だけは肩代わりしてくれる。一緒に背負うと寄り添ってくれた、ただ一人だった。変化の無い生活などあり得ない。自分が一番わかっていることだった。しかし、それでも、変化が苦手である布留川は、変わりかけるすべての事柄を拒絶したくてしょうがない。

「どうした、霧流」

 ゼロ距離で問いかける、触れ合った肌は人の温度。初瀬は自分の顔元にある布留川の手を握った。

「おはよう、総野」

 その掴んだ手ごと頭を押さえて軽く唸る。二日酔いと見て取れる様子に布留川は「飲みすぎた?」と問いかけた。

「飲みすぎだ。頭が痛い」

 ゆるゆると答える初瀬に「大丈夫。午前中で治るよ、あの量であれぐらいなら」と布留川は診立てる。

蟒蛇うわばみに言われてもなぁ、」

そうぐずる初瀬だが、布留川にとっては飲みすぎた初瀬を見慣れている。布留川は複雑そうに微笑んだ。――朝が嫌いだった。太陽に顔向けできる生活をしているわけではないから。

 かつて、野良猫と呼ばれた殺し屋は思う。このツケを支払うことになるのはいつだろう。逃げ場がないという閉塞感。消し去ることのできない不安をアルコールと恋愛感情で癒す。もはやそれが恋愛感情で済まされず、それをも超えた、得体の知れない依存に代わっていることも気づかない。

「安心しろ、霧流。俺がなんとかするさ」

 すかさず心情を察した初瀬はできもしない約束を簡単に言い退ける。布留川は「馬鹿野郎、俺は何もできない男じゃない」と抗議する。初瀬は苦笑気味で答えた。

「それは心配してないさ。俺が誰より知っている」

初瀬の言葉に布留川は心底不安そうな表情をする。自分はアルコールで癒えることはない。自分が一番わかっていた。傷を舐め合っても、そこから化膿していくことも。結局問題の先送りであることを。

「あの標的、警察官なんだろう。もしも俺たちのこと嗅ぎつけていたどうしよう。過去の殺しとか、俺たちの経歴とか。総野は足がつかないかもしれないけれど、俺は青森の施設脱走しているの、経歴としてモロに残ってるだろうし」

 懸念を口にする。リスクが伴うことが自分であることは重々承知だった。

「どうだろう、あの施設は結局、布留川霧彦(クソジジィ)の差し金によってテコ入れしたんだろう。当時の資料なんてちゃんと管理や受け渡しがされているのか?」

 楽観視する初瀬に、布留川は「さすがにここは日本だよ? フィリピンみたいに子供の一人や二人行方不明になったら臓器売買みたいな民度じゃないでしょ」とトゲのある口調で指摘した。

「はは、俺たちの口からソレを言うと、軽くギャグだな」

 第一、初瀬はその臓器売買の恩恵を受けている。元来、初瀬は先天性の心臓病、喀血を伴う左心不全症状に悩まされていた。初瀬は自分が霧流に「そうや」という名前で呼ばれる前から、自身の生が長いものではないと自覚していた。十代で自分の命に対して達観していたが、自暴自棄にならなかったのは、布留川霧流という存在がいたからだろう。親からも捨てられ、信じていた人に裏切られてきた人生を前に、自殺を選ぼうとしていたこともあった手前、長くはない生に執着する気もない。けれど、布留川と交わした幾つかの約束が、初瀬の生きる理由になっている。

「真面目な話しているんだけど?」

東間組から抜けた理由も、布留川が初瀬の治療をするために、それまでずっと避けていた家柄を継ぐことを決意した。布留川は初瀬のために、自身の祖父から様々な制約を受け入れたといっても過言じゃなかった。

「悪ぃ悪ぃ、暗い話だったらか、霧流のことが心配で」

 苦笑する初瀬を見て、布留川は不機嫌になる。

「言いたい放題。総野のそういうところ、本当に、」

言いかけた言葉に被せてきたのは「嫌いになれるか?」という、答えがわかりきっている疑問形だった。

「バカ、アホ、ボケ、」

暴言を並べる布留川に、初瀬は冗談めかした声色で「色ボケたこと言っているのは霧流のほうなんだけどな」とからかった。

「仮にそうだったとして、……心配している俺は馬鹿か?」

 悔しそうに歯を食いしばって問いかける布留川に、初瀬は軽く首を横に振った。

「そんなことないさ。考えるのが嫌になったからつい」

 丸く包む言い方に「そうだな。できれば俺も考えたくない」と布留川も同調した。ぐらぐらに甘い二人を包むが、本質に至る回答までを述べることを避けていた。


(続く)

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