第211話 夜花の決意

 息を切らし、姫乃は樹木が大きく腕を広げ、暗がりとなった坂を登る。

 遠くの方で聞こえる花火の音と、微かな光の残滓ざんしだけが、姫乃の行く先を示してくれていた。

 幼い頃の記憶を頼りに、姫乃はその『場所』に辿り着いた。

 十年前、迷いに迷った末に辿り着いた二人だけの秘密の場所。

 初めて、姫乃が本物の『花火』を知った場所。

 花火を見た後、帰ってから二人してしこたま怒られてからは、二度と来ることがなかった場所。

 数年ぶりのことではあるが、姫乃はその場所をしっかり覚えていた。

 姫乃にとって、そこはかけがえのない場所の一つだから……。

 辿り着いた瞬間、姫乃は膝に手をつき、喘ぎながら必死に空気を体内に取り入れる。

 体中汗にまみれ、履いていたヒールも走りにくいと既に脱ぎ捨てていた。

 頬を伝う汗の感触から、姫乃は十年前のことを思い出いしていた。

 あの時は、暁の背中の上で、彼のうなじを伝う汗を見た。

 ずっと自分を抱えて歩いていた彼も、汗だくだった。

 今の自分のように。

 ようやく息が整ってきた頃、姫乃は顔を上げて空を望む。

 すると、まるで姫乃が顔を上げるタイミングを図っていたかのように、大輪の光の花が夜空に開いた。


「間に……合った……」


 弾む息を整えながら、姫乃は空に咲き誇るいくつもの花火を見つめる。

 小さい頃、自分がまだ『自分』ではなかった頃、姫乃はここで生まれて初めて本物の花火を見た。

 色とりどりの閃光が濃紺の空に散りばめられ、様々な形を織り成す。

 果たして本当に人の手で、魔力も使わずこのような素晴らしいものを作り出すことができるのか。

 ならば、どのようにしてこんな美しいものを作り出しているのか。

 幼い姫乃の心中に、いくつもの疑問と関心と感動が、それこそ連続する花火のように花開いたことか。

 何よりも、その時は傍に花火以上に輝いて見えるものがあった。

 あまりの感動に圧倒され、言葉を失い感嘆に耽る自分を、汗だくのまま嬉しそうに微笑む彼の顔。

 その笑顔は、その時見たどんな花火よりも輝き、姫乃の心に刻まれていた。

 痺れるような音と共に、美しい花火がいくつも夜空を彩る。

 しかし、今の姫乃の心の中に、感動はない。

 あるのは、言いようのない寂寥感せきりょうかんだけだった。


(花火が……あんなに遠くに……)


 手を伸ばし、夜空に咲く花火に姫乃は掌を重ねる。

 幼い頃はあんなに近くに、手を伸ばせば摘み取ることが出来そうだと思える程に近くに見えた花火が、今は何故か遠くにいってしまったように見える。


(違う……遠くにいったんじゃない……私が離れていったんだ……)


 姫乃は、伸ばしていた手を下ろす。

 もう、自分には届かないモノのことを考えるのは止めよう。

 それよりも、今の姫乃にはやらなくてはならないことがある。


(確かめなくては……あの男のことを……)


 さっき緋彩が見せたあの表情。

 姫乃は、それがどうしても気になっていた。

 確かめなくてはいけない。

 今、自分がすべきことを新たに見出した姫乃は、決心するかのように拳を握りしめた。



 ※



「『婚前式』の予定日を早めたい?」


 移動中の車内で緋彩からの電話を受けた亞咬は、眉根を寄せて聞き返した。

 電話口の奥では、緋彩がいつものように人の良さそうな笑みを浮かべ、何度も頷いていた。


『ええ。どうせいずれは済ませなくてはならないんですから、早めに終わらせるに越したことはないでしょう?』


「いやに急だな……何かあったのか?」


『いえ、ただいつまでも陛下をお持たせするのもどうかと思ったんです。俺も早く正式に『魔王の配下ヴァーサル』として仕えねば……とね』


「ふむ……」


 顎に手を当て、亞咬は考える。

 事を急ぐにしても、こちらの準備がまだ何も整っていない。

 確かに、早く『婚前式』を終えなくては暁の魔王としての公務にも支障があるかもしれない。

 しかし、それが事を性急に進める理由になるかどうか。

 何より、この『婚前式』にはとても重要なを行わなくてはならない。

 そのための念入りな準備が必要なのだが……。

 考え込み、亞咬は沈黙する。

 電話越しにも、亞咬が迷っていることを緋彩はすぐに察した。

 察するどころか、予想はついていた。

 それだけ、『婚前式』で行われる儀式は大きな意味を持つ。

 『紅神家』として、彼らのお役目として、この第七区全体として。

 だからこそ、亞咬が慎重になるのも無理はないことだった。


『亞咬さん……』


「……ん?」


 考え込んでいた亞咬の耳に、緋彩の声が届いた次の瞬間、亞咬の体が一瞬大きく痙攣する。

 そして、すぐに全身の力が抜けたように弛緩すると、手にしていた携帯がシートの上に落下した。


「…………君…」


「はっ……」


 亞咬は運転している秘書に声をかける。

 顔は前方に向けたまま、秘書はバックミラー越しに亞咬を見た。

 項垂れたまま、固まっている亞咬に秘書は違和感を感じ、首を傾げる。

 しかし、すぐにその違和感も亞咬からの指示で四散してしまった。


「『五長老』の全員に召集をかける。会合の手配をしてくれ」


「『五長老』全員にですか……? 日程はいつ……」


「今からだ」


「えっ!?」


「聞こえなかったのか? 今からだと言ったんだ。会合の内容はに執り行う『婚前式』についてだ。急げ!」


「はっ……はい!!」


 秘書は急がねばとアクセルを強く踏む。

 指示を出した亞咬の顔色は、未だ臥せっているの伺い知ることはできない。

 だが、いつもどこか威圧的な雰囲気を纏っている亞咬が、より一層危険な雰囲気を醸し出しているような気配を、秘書は背中越しに感じていた。

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