第187話 記憶

 いつも夢を見る。

 僕が立っているのは、一筋の光もない、真っ暗な空間。

 前は勿論のこと、右も、左も、そして後ろも、上も下も、黒のペンキで丁寧に塗りあげたように黒に覆われた世界。

 それが……僕のの夢の世界。

 そんな空間で、ただただ僕は一人、立ち尽くしている。

 人の脳は、睡眠中に自ら経験したことや過去に見聞きした情報を脳内で『記憶』という引き出しに、それぞれのジャンルごとに整理していると言われている。

 『夢』とは、その整理の過程で脳内に流される映像を人が断片的に見るもののことを言うらしい。

 これは一種の学説に過ぎないが、あながち信憑性の低いものではないようだ。

 その証拠に、今の僕の『記憶』という引き出しには、何もない。

 正確には、あるはずなのだろう。

 しかし、僕の引き出しは、この空間同様黒く塗りつぶされてしまっている。

 夢を見るために、取り出すことが出来ないほど、黒く。

 そう、僕は何も思い出せない。

 僕自身、誰かなのかすら。



 ※



「…………はっ!?」


 じっとりとした寝間着の重さで、暁は目を覚ました。

 一人では広すぎるベッドから体を起こすと、自分の額を手で拭う。

 寝間着同様、大量の汗で、暁の掌は水を撫でたように濡れた。

 目覚めてからというもの、を頻繁に見ている。

 いや、むしろあの夢しか見ていない。

 自分の家だと聞いているこの古びた館――――灰魔館で生活を始めてから、ずっとだ。

 原因は分かっている。

 記憶が戻らない今、いくら「ここが自分の家ですよ」と言われても、暁にとってここは見ず知らずの場所に他ならず、心が休まるわけがない。

 しかし、それはこの『王都』に限らず、世界中何処に居ても同じことだ。

 原因はもっと別にある。

 そう、灰魔館ここには、暁が記憶を失った場所、暁が全てを失った場所があった。

 今は立ち入り禁止になっている、魔王の執務室。

 それが、この場所にはある。

 しかし、記憶を失った暁はそのことがどうしても思い出せない。

 周りの大人たちから、その場所で自分の両親が殺されたこと、自分がその場所に倒れていたことは聞いた。

 実際に、自分で確かめようと、その場所に足を踏み入れようともした。

 しかし、その場所に近づけば近づくほど、酷い頭痛や目眩、吐き気に襲われ、扉の前にすら辿り着くことが出来なかった。

 まるで、自分の無意識が記憶を思い出すことを恐れているかのように。


「おはようございます」


「うわあぁぁっ!!?」


 突然声をかけられ、暁は驚きベッドの上を跳ねる。

 ベッドのスプリングのあまりの反発力に、跳ねた拍子にベッドから転げ落ちた暁は床に頭から落下する。

 幸い、床には柔らかいカーペットが敷いてあったため痛みはなかったが、未だに心臓の方は意図せぬ寝起きドッキリにバクバクと鳴り続けていた。


「申し訳ありません、何度もノックをしたのですが、返答がなかったため何かあったのかと…………」


「いや…………ちょっと……考え事をしてて…………」


「そうでしたか。それは申し訳ありませんでした。朝食の用意が出来ておりますが……こちらにお持ちしましょうか?」


「いや、食べに行くよ。だけどその前に……ムクロ


「はい。何でしょうか?」


「起こすのを手伝ってもらえますか? さっきので腰が抜けちゃって…………」


「おお、それは気が利かず。重ね重ね申し訳ありません」


 暁はでんぐり返しに失敗したかのような体勢で苦笑いを浮かべる。

 結局暁は立ち上がることが出来ず、その日の朝食は食堂までムクロに背負ってもらうこととなった。



 ※



「ふぅ…………」


 暁はリビングのテーブルに積まれたアルバムの山を見て、ため息をつく。

 朝食に赴く際、ムクロに背負われて思いついた。

 自分の昔のアルバムを見れば、何か思い出すのではないか、と。

 まあ、結果はただの徒労に終わったのだが。

 例えアルバムを見ても、記憶のない自分にとっては自分とよく似た他人のアルバムのようなものでしかなかった。

 せめて、何か引っ掛かることでもあれば何か変わっただろうが…………。


(そう言えば…………)


 暁は考えながら、再びアルバムをそれぞれ手に取る。

 アルバムの側面にはナンバリングがされているのだが、その数字は幼少期の『2』から始まっている。

 そう、何故か乳児期のアルバムである『1』だけがないのだ。

 暁もこれらを手渡された時に真っ先に気づき、ムクロに尋ねたのだが、ムクロの話に寄れば最初の一冊目だけ紛失してしまったらしい。

 その時は自分の記憶の手がかりのことで頭がいっぱいだったが、よくよく考えればおかしな話である。


(普通なくすか? 我が子にとって一番大切な時期である乳児期のアルバムを…………)


 記憶とは別の強い違和感に、暁は頭を悩ませる。

 そのせいだろうか。

 背後からゆっくりと近づいてくる影にまったく気がつかなかった。


「あーきちゃん」


「どぉわああぁぁぁぁぁっっっ!!?」


 ソファーから跳び跳ねた暁は、そのまま前にあるアルバムの山に顔から突っ込む。

 今度は流石に、鼻頭と額に強い痛みを感じた。


「だっ……大丈夫、暁ちゃん!?」


「すっごい音がしたねぇ~」


「おい、何か下敷きになってるぞ!? 病み上がりには本当にマズイんじゃ…………」


 アルバムの山に埋もれた暁に、幼なじみ三人の少女が慌てふためく。

 アルバムの雪崩の中、暁はぼんやりと「今日はよく驚かされる日だなぁ……」と考えていた。

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