第180話 その日……

 手紙が届いてから数日後、望む望まざる関係なくその日はやってきた。

 灰魔館の玄関前のロータリーに、明らかに高級と分かる黒塗りの外車が一台乗り付ける。

 それを出迎えたムクロは、後部座席のドアを開いた。

 中から出てきたのは、車同様に黒で統一されたスーツ姿の男。

 白髪の混じった群青色の髪をオールバックに撫で付け、猛禽類を思わせるような鋭い眼光。

 同じような年齢である『赤銅色の魔王』、アルドラゴが偉丈夫の将軍とするなら、この細身の男は凶相をたたえた狡猾な策士というような印象を抱かせる。

 しかし、周囲を圧する雰囲気は『王』であるアルドラゴと同種のものであった。

 そんな周囲を圧倒する威圧感を発しながら、紅神亞咬は現れた。


「ようこそおいでくださいました。王がお待ちです」


「……ああ」


 ムクロに促され、亞咬は開かれた屋敷の中に足を踏み入れる。

 扉の先には、緊張した面持ちの姫乃が両手を揃えて立っていた。


「お久しぶりです、お父様」


「ああ、息災であったか?」


「……はい。お父様の方もお変わりなく…………」


「うむ」


 亞咬は姫乃の方に全く視線を向けず、一言二言交わすと、その横を通り過ぎていく。

 親子のやり取りとは思えない、素っ気ない挨拶を傍目で見ていた灰魔館の面々も緊張した様子で見守る。

 昔から亞咬を知っている神無やふらんはともかく、新参のメルやイヴも一目で彼が只者ではないと理解した。

 特にメルは、この男が自分の父と同種の存在、圧倒的な『強者』であるということまで感じ取っていた。


「マジかよ……あのおっさん何者だよ……」


 メルの呟きに、神無が耳元に口を寄せて囁く。


「姫ちゃんのお父さんだよ」


「んなことぁわかってるよ。敵意も殺気も向けられてないのにこの威圧感は何なんだって言ってんだ」


「『吸血鬼ヴァンパイア』は高位のデモニアであると私のデータベースにもインプットされてはいるが…………正確性に欠けるな。情報の更新が必要なようだ」


「多分、それは亞咬さんが特別なだけだと思うな…………」


 ただ一つ、『異質』が混じった灰魔館をにわかに緊張が包む。

 今日その日、灰魔館の誰しもが予感していた。

 自分たちの日々の平穏が打ち砕かれる、そんな予感を。



 ※



「ようこそおいでくださいました。そして、お久しぶりですね……亞咬さん」


「ご無沙汰しております。日頃、娘が世話になっているというのに、雑事にかまけてお礼も出来ず、申し訳ありません」


「やめてくださいそんな。貴方にそうやって頭を下げさせては、僕が父に顔向けできません」


 応接室で向かい合うや否や、深々と頭を下げる亞咬を暁は慌てて制止する。

 暁に止められ、顔を上げた亞咬は垂れた前髪を丁寧に撫で付け直した。


「あれから五年……になりますか」


「はい。もう……そんなになりますかね」


 しみじみとした様子で亞咬は応接室の窓から見える中庭を眺める。

 中庭の中央にある屋根付きのテラス。

 そこはかつて、父である『黒耀色の魔王』が好んだ場所だった。


「もう五年……いや……私にはまだ足りませんでした……何せ、私の中の『怒り』の火は未だに燃え続けている…………あの方の仇をとるまで、この火が消えることはないでしょう」


「亞咬さん…………」


「おかげで今では賊の行方を追うことが、引退した私のライフワークとなってしまいました……」


 暁は、細く鋭い目が悲しげに歪むのを黙って見つめる。

 膝で握り締められた亞咬の拳は、微かに震えていた。

 父の……『黒耀色の魔王』の死は周囲に大きな影響を及ぼした。

 暁自身も、その影響を受けた者の一人であり、目の前で拳を震わせる亞咬もまた、その一人だった。


「あれから両親の仇を僕も探してはいます。しかし、足取りは一向に掴めません」


「私も同じです。魔王様御自身の方はどうなんですか? ?」


 亞咬の問いかけに暁は首を横に振る。

 暁の返答に、亞咬は落胆した様子を見せた。


「そうですか…………ですが、あの時……あの襲撃の夜にご両親と一緒にいた魔王様の記憶だけが今唯一の手がかりかもしれないのです」


「わかっています。でも、思い出せるのは……父と母の最後の顔……血塗れの手……そして……瞳のない………………」


「『黒い目』……ですか」


「……そればかりです。新しいことは何も……」


「申し訳ありません。一番辛いのは魔王様にも関わらず……貴方に頼ってしまい……」


「いいんです。両親の仇は……必ず見つけ出す。僕自身が望んでいることですから……」


 暗い雰囲気が、応接室を包み込む。

 そんな押し黙った二人の空気を入れ換えるように、応接室の扉が開き、コーヒーの入ったカップを乗せたお盆を持って、ムクロが部屋に入ってきた。

 そして、その後に続いて茶菓子を携えた姫乃が入室してくる。

 それを機にと、暁が改めて亞咬に向き直る。


「ところで亞咬さん、今日はどういったご用件で?」


「そうでした……つい話が逸れてしまいましたな。本日はある提案をしにきたのです」


「提案?」


「姫乃、こちらに座りなさい」


「えっ……? はっ……はいっ!」


 父に促され、姫乃は亞咬の隣に腰かける。

 暁と紅神親子はテーブルを挟んで向かい合うような形になった。

 まるで、互いを隔てるような構図であると、何故か暁はその時ぼんやりと思っていた。


「単刀直入に言わせていただきます。魔王様、今日私は娘を……姫乃を連れ戻しに来たのです」


「「えっ……?」」


 暁と姫乃が同時に声を上げる。

 それに構うことなく、亞咬は横に座る姫乃に厳しい表情で告げた。


「姫乃、お前は今日限りで魔王様の臣下ヴァーサルを辞めなさい」

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