第十三章 ヴァンパイア

第179話 『紅神亞咬』という男

「ついに来たかって感じだね」


 暁は書類の散乱した机上に、開封された封筒を投げ出す。

 宛名には『紅神亞咬あごう』と大きな字で書かれている。

 非常に達筆で、どこか堅苦しさを感じさせる字面に、暁はそれを書いた人物の顔を思い出しため息をついた。


「姫乃様が灰魔館ここに来て、三年余り…………今まで何の動きも見せなかっただけに空恐ろしいものがありますね」


「全くだ」


 ムクロの言葉に、暁は浮かない顔で同意する。

 ムクロも、白骨の顔面がどこか浮かない表情のように感じられる。

 二人がここまで心配しているのには、勿論理由がある。

 一つは、この亞咬という男が、恐ろしいまでに苛烈な性格をしているからだ。

 亞咬はかつて、父である『黒耀色の魔王』の臣下ヴァーサルを務めていた。

 魔王の右腕と呼ぶに相応しい男であり、時には影となり、時には矢面となって父を支える姿は、息子である暁をして、父の統治になくてはならない人物だと思わせるものだった。

 しかし、その反面、彼は一つの大きな欠点を抱えていた。

 それは、己が優秀過ぎるあまり、他人にまでそれを強要するきらいがあるということだ。

 しかも、自分の意にそぐわないものに対しては徹底的に叩き潰す。

 そして、それを行うだけの十分な力が備わっている。

 それが、『紅神亞咬』という男だった。

 そんな性格と力故に、逆らうまいとする者が大半であったが、それでもやはり反感を持つ者は存在した。

 当時は父が間に入り、上手く取り持ってはいたが、それでもその厳し過ぎる性格と雰囲気は周囲と溝を作るに十分なものだった。

 そしてそれは、魔王の子息である暁も例外ではない。

 暁もまた、彼の独特の雰囲気に苦手意識を持つ一者の人だった。

 だが、暁とムクロが心配しているのはそこではない。

 二人が心配する理由は、もっと別のところにあった。


「ところで、姫ちゃんは?」


「書面を受け取ってからはずっと自室に……」


「まぁ、無理もない……か」


 思った通りの返答に、暁は再びため息をつく。

 暁たちが心配する最大の理由。

 それは、亞咬と一人娘である姫乃との折り合いの悪さだった。



 ※



 自室に戻ってから数時間。

 姫乃はベッドに寝転がった状態で、宙を見つめる。

 生徒会の仕事から帰ってきたまま制服も脱がず、何かを考えたまま、天井の一点を、ただ見つめていた。

 そして、ふとした時に姫乃は横目で自分の机の上を見る。

 机の上には、ムクロから手渡された封筒が封も開かれぬまま置いてあった。

 話に寄れば、暁宛てにも同様の封筒が届いているとのことだが、自分のものも含めて、その内容はある程度察しがつく。

 亞咬が……父が便りを寄越す時は、大抵その用向きの詳細は記さず、ただ話があるということのアポイントメントを取るためだけである。

 アポイントメントを取るためといっても、一方的に訪問の日時が記されているだけで、こちらの承服は求めていないというところまで、姫乃にはおおよそ予想がついていた。

 どうせ、暁宛ての手紙の方にも同じようなことが書かれているに決まっている。

 だから、自分は開ける必要はない。

 そう、姫乃は頭の中で理屈をこねる。

 しかし、それは屁理屈であるということも姫乃は自覚していた。


「はぁ…………」


 姫乃は一つため息をつくと、ベッドから起き上がり、ゆっくりと机に近づく。

 そして、置かれていた封筒を手に取ると、その開け口に指をかけた。


「…………っ……」


 指先が微かに震える。

 開けたくない。

 姫乃の本心が必死にそう叫び、指先を止める。

 姫乃は、恐れていた。

 結論から言えば、手紙の内容は姫乃の予想通り自らが灰魔館を訪問することと、その日時が指定されているだけなのだが、それでも姫乃は居もしない相手の姿に恐怖していた。

 それが、姫乃の心の奥底に植えつけられ、根深く食い込んだ、『紅神亞咬』という存在だった。



 ※



 渇いた打擲ちょうちゃく音が澄んだ朝の空気に響き渡る。

 音と共に小さな体が投げ出され、朝露で湿った地面を転がった。


「……立て、姫乃。もう一度だ」


 僅かに乱れた群青色の髪を後ろに撫でつけながら、男は低く静かな声を目の前の小さな体に投げつける。

 父からの有無を言わさぬ無情な一声に、幼き頃の姫乃は黙って立ち上がった。

 小さな頬は赤く腫れ上がり、微かに青黒くなっているようにも見える。

 しかし、当時まだ四・五歳ほどの年齢しかなかった姫乃だが、その時は涙を一滴も溢さず、光のない瞳で父を見つめた。

 この頃から、既に姫乃は学んでいた。

 涙が目の前の男に対して何の意味を成さないものであるということを。

 むしろ、余計に男の神経を逆撫でするものだということを。

 姫乃は無表情のまま、傷だらけの指先を広げ、構えを取る。

 その姿を見た父は、何の感慨もなく、当然であるかのように頷いた。

 父、亞咬と娘、姫乃。

 この光景が、この頬の痛みが、紅神親子のであった。

 しかし、当時の姫乃に父を恐ろしく思う感情はなかった。

 否、正しくは恐ろしいと思うほど、姫乃に感情というものが存在していなかったのだ。

 それだけ、この父からの行為が幼い頃から続いており、それが当たり前となっていた。

 圧倒的で、絶対の『力』そのものが具現化した存在。

 それが、姫乃にとっての父、『紅神亞咬』であった。

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