第162話 醜い女

「はい、そのままゆっくり足を動かして。いち、に。いち、に」


「いっ…………ち、に。いっち…………に」


「凄いですよ! ちょっとずつですけど進んでますよ!!」


「そ…………そう?」


 暁がイヴと澪夢と共に泳ぎの練習を始めてから三十分ほどが経過していた。

 今暁はイヴに手をとってもらいながらばた足の練習をしているところだ。

 暁の格好はゴーグルにシュノーケルをつけ、ライフジャケットと浮き輪を身につけた重装備である。

 しかし、そんな溺れることの方が難しい状態にも関わらず、暁は手をとってもらわないと水に入ろうとしなかった。

 例え腰までしかない浅瀬であっても、水に対する恐怖心が大きかった暁はどうしても二の足を踏んでしまったのだ。

 そのため、イヴと澪夢の二人はまず暁の水に対する恐怖心を薄れさせることから始めた。

 優しく手をとり励ますことで、とにかく泳ぐことができると自信をつけさせ、水に対する恐怖心を克服させようという狙いだ。

 まるで水を怖がる幼子に泳ぎを教えるような地道な手立てではあるが、その甲斐もあってか暁の水に対する恐怖心も少しずつ和らいでいるようだった。

 その様子を浜辺から残った少女たちが見守る。

 別に見守る必要も義務もないのだろうが、律儀にも全員が練習する三人を見守っていた。


「…………あれ今日中に泳げるようになるかな?」


「いや無理だろ。でもまぁ、水に対する抵抗感は多少和らぐんじゃないか?」


 神無の問いかけにメルはぼんやりと答えながら、手にした缶ジュースを一口飲む。

 冷たい炭酸飲料が暑さと海水で渇いた喉をくすぐる。

 メルが心地好い刺激を堪能していると、色とりどりのフルーツが並べられた皿が目の前に差し出された。


「フルーツもどう? 冷えてて美味しいよ」


「お、さんきゅ」


 メルはふらんから差し出された皿から大好物のイチゴを一つ取ると、口に入れる。

 ふらんの言う通り程好く冷やされたイチゴの甘さが口の中に広がり、メルの顔をほころばせた。


「おいひぃ~」


「ふふっ……良かった」


 メルの様子を見て、ふらんは微笑みを浮かべる。

 そんなふらんの微笑みを見て、メルは首を傾げた。


「なぁ…………」


「ん?」


「お前はいいのか?」


「え?」


「あの二人みたいに暁の練習に付き合わなくてもいいのかってことだよ。お前も参加しそうだなって思ってたんだけど…………」


 ここ最近のふらんの様子を見ていただけに、今のふらんの落ち着きようが、メルはどうも腑に落ちなかった。

 本来ならふらんも暁を教えたがると思ったのだが…………。

 メルの疑問に、ふらんはしばらく考え込む。

 そして、メルの横に静かに腰を下ろすと、恥ずかしそうに笑った。


「自分でも不思議なんだけど、今の暁ちゃんたちを見てても全然嫌じゃないの。むしろ、嬉しいなって」


「嬉しい?」


 さらに首を傾げるメルに、ふらんは頷く。


「うん。だって、二人は暁ちゃんのために何かしてあげたくて、今一生懸命になってくれてるんだもん。そう考えると、何だか嬉しくて」


 そう言って笑うふらんの顔に陰りはない。

 先ほどの言葉に偽りがないことが、メルにもよく分かった。

 元々周りとの協調を重んじるふらんなだけに、自分と同じようにと思っている二人の姿は、澪夢と同様に不思議な仲間意識を芽生えさせていた。

 ふらんの微笑みに、そんな感情が秘められていることをメルは知らない。

 しかし、穏やかなふらんの表情を見て、メルは納得したように頷いた。


「変なヤツだな、お前は」


「やっぱりそう思う?」


 そう言うと二人は顔を見合わせて笑い合う。

 恋をしていれば、自分の気持ちをコントロールできなくなることは往々にしてある。

 自分の想い人に好意を抱く者が他にいると知れば尚更だ。

 しかし、中には澪夢やふらんのように自分と同じような感情を抱く者として、同族意識を芽生えさせる者も存在する。

 その同族意識は、恋を成就させることにおいて自分に不利益と成り得る可能性もあるだろう。

 何せ、恋敵の一番の理解者足り得るのが自分なのだから。

 だが、それでも自分と同じ感情を抱いた恋の理解者であろう者たちが他にいるのは得もいえぬ安心感をもたらしてくれた。

 そんな嫉妬心を越えて無邪気に笑うふらんの横から暗い視線を向ける者がいた。

 姫乃である。

 聞くつもりはなかったが、二人の会話が自然と耳に入ってしまった。

 ふらんが暁に対して好意を持っているのは、長い付き合いの中で気づいてはいた。

 しかし、改めて耳にしたことで姫乃の心の内はさらにざわめき出していた。

 姫乃は羨ましく、妬ましかった。

 ふらんが、澪夢が、イヴが。

 純粋に暁に好意を抱く彼女たちが。

 そして、恨めしかった。

 


(なんて…………なんて醜い女なんだ……私は…………)


 姫乃は誰にも気づかれないように、唇を噛んで俯く。

 カラッとした爽やかな夏の日差しの下、誰よりも陰鬱とした嫉妬心にまみれた自分に、姫乃は再び自己嫌悪に陥っていた。

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