レ晴ニ夜

鯰屋

第一夜 雨宿リ

「あなた、受験生なんだから。おばあちゃんのとこで勉強したらいいじゃない」


 ふと、朝食の話題に上がった祖母の話から派生した──母の見切り発車によって彼はバスに揺られていた。


 車のサスペンションが何たるかを考えさせられる、あるいは舗装された道路の素晴らしさを痛感させられるほどの畦道を最寄駅からバスで二時間。クーラーの利かない車内を白髪のタンクトップ運転手と共に二時間だ。

 車窓の向こうで流れる景色は退屈なものだった。気分が悪くなりそうなほどの青空、その下には濃緑の山々が鎮座している。俳句ならば、山滴ると表現されるやつだ。

 やかましく鳴くアブラゼミ──こいつの不快感は言葉にならない。見渡す限りの水田、その中に佇んでいる案山子の服装を眺めるのが不快感を遠ざけるただひとつの娯楽だった。あいつは麦わら帽子をかぶっているなぁ、と。


 そんな道中、三十分に一度ほど自販機の前に停車し、運転手の休憩タイムが挟まれていた。この時間を排除すれば、もっと早く到着できたのかもしれない。

 しかし少年は、停車の度に酸素を欲する金魚の如くバスの外へと飛び出し──水を買っては一気飲み。水を買っては一気飲み。そして気付く、自販機の隣にゴミ箱が設置されていない。


「ゴミ箱とかって無いんすかね」


 細かくか細い呼吸を重ねながら少年が尋ねる。ここまではバスで来たのだ。バスで来たはずなのだ。それなのに、この汗の量は何だ。


「んん? ああ、隣の三瓶ちゃんが持ってったよ」


 運転手の口から飛び出した異世界言語。まず、三瓶さんが誰かはわからない。そして、空き缶のゴミ箱を持って行ったというアウトローっぷり。それを軽々と口にするあたりから、運転手(吉野健一さん、御年七十八歳)のクレイジーっぷりも伺えた。

 バスの車窓越しに見えた民家と思しき建造物の距離から察するに、この集落の住人にとって『お隣さん』とは数キロ単位で離れているらしい。おそらく、隣接という言葉を知らないと見た。


 ──その後、僕たちの間に目立った会話はなく、唯一上げるとするならば、


「ここらは日ぃ暮れたら出歩かねぇほういいよぉ。もののけ出っから」


「⋯⋯はぁ」


 それ以外は、ラジオからノイズ混じりに聞こえる演歌(同じ曲)がずっと響いていた。

 もののけ──これだけ田舎ともなれば、そういった伝承やら伝説なんかが信じられていたりするのだろうか。見たところ電柱はあっても街灯らしきものは見当たらない。そもそも、出歩こうとなんてしないだろう。


 話半分に聞いていた運転手の言葉をなんとなく反芻している間に、バスは最後の停留所の前に停まる。休憩の度に増えていったペットボトルを御年七十歳の分まで抱えてバスを降り、祖母の家へと腰を下ろした。


 母の考えとしては、都会の雑音から離れて川のせせらぎでも聞きながらゆったりと受験勉強してらっしゃい、といった少年への思いやりなのだろう。しかし、椅子と机での勉強に慣れている彼としては、ちゃぶ台に正座での勉強はキツい。

 さらに、ここは盆地である。こんなにも蒸し暑く、それでいて冬は寒いパーフェクトロケーションの中で勉強をしろというのだから、もうどうすればよいのやら。


「七時っからご飯にするから、二階で勉強するなり、川で遊んでくるなり好きにしなしぇ」


 祖母は歯の欠けた口に柔和な笑みを浮かべて、少年の首にPHSをかけた。「これで呼ぶから」だそうだ。

 晩御飯まで二時間ほどある。真冬ならば辺りは宵に沈んでいるのだろうが、今は蒸し暑い七月の終わり。辟易とさせられるほどに、相も変わらず空は青い。地形のせいもあるのか文字通り雲ひとつない晴天だ。迷惑だ。


 遠くでヒグラシが鳴いている。映画でたまに聞く音だ。実際に聞いてみると、カナカナという擬音が適しているように思えない。

 微温く湿気った風が青々と葉をつけたクヌギを揺らした。集落を囲む山が腹を膨らませて呼吸しているみたいだ。


「それと、出かけるなら、暗くなる前には戻ってな。家の中にいてぇや」


 与えられた自室ではなく、外へ向かおうとした背に向けて祖母は言う。

 どうも、この集落の人間はみな決まって『夜は出歩くな』と口々に言う。街灯が枯渇しているのだからそれも納得のできる話ではある。どうでもいいことではあるのだが、どうもその言葉が頭の中で響いてやまない。


 わかった、とだけ背中越しに言葉を返す。祖母は首にPHSをかけた段階で、自分が勉強する気など毛頭ないことに気づいていたのだろう。当たり前だ。

 こんな蒸し暑い中で、それも畳で宿題が進むワケがない。少し日が傾くまで川辺で涼んで、気温が下がってから取りかかればいい。祖母の家で涼むという選択肢はない。



 ~~~



 畦道のほとりに夕顔が咲いている。赤くなった小川に目を遣ると黒っぽい小魚が流れに逆らって泳ぎ、川底に藻が揺れていた。


 少し歩いているうちに日は傾き、宵闇と暮れの混ざった紫色がやんわりと橙の空に落ちていた。まだ、暗くはない。赤トンボが頭上をかすめていく。

 でんぐり返しでお家に帰りたいところだが、ここでのお家とは、祖母の家ではなく少年の家のことだ。お盆の墓参りくらい家族全員で帰郷すれば良いのに。自分だけを生け贄の様に送り出すから気に入らない──


 こうして吐き出す嘆息すら生温く、汗に濡れた背とリュックの間は引っ付いたまま。引き返そうとは考えずに、そのまま歩を進めた。いくら暗くなったって、基本的に田んぼの間を一本道が通っているだけだ。迷う方がおかしい。


「⋯⋯それが、どうしたもんか」


 道のほとりにぽつんと建っていた雑貨屋でいくつかの駄菓子と棒アイス、瓶のラムネを買った。商品をビニール袋に入れてくれない点に驚愕──というところまでは鮮明に覚えている。が、現在立っている場所まで歩いてきた記憶がない。

 口に入ったままのアイスはまだ少し残っている。そう長い時間歩いていたはずがない。それなのに、いつしかこんな山道に出てしまった。入ってしまったの方が正しいのかもしれないけれど、どうも妙だ。


 小学生が通学路を歩く時のような、特に考えもせずに足だけが動いている状態だったというのだろうか──それにしては、ここらの道に慣れ親しんでなどいないし、当然見覚えはない。


 長い距離を車で運ばれた後の子犬の様に、少年は辺りを見回す。

 名も知らぬ雑草は腰元まで伸び、山道というよりは獣道だ。そしてさらに不可解であるのが、目の前の草が踏み倒されていないということだ。即ち、散々山道と形容してきたここは道じゃない。山の中にたった今できた道というだけである。

 少年の背後には、おそらく自分が歩いてきたであろう踏み倒された筋が出来ている。少年の足元、白いスニーカーには雑草の緑色がこびりついていた。


 帰郷したとて、ここまで一人で歩いてきたことはない。ましてや、道すらない山の斜面を開拓しながら登ることなんてあるのだろうか。

 若青い葉の天井から覗くオレンジの中をカラスの群れが泳いでいった。無数に響く鳴き声は老婆の低い唸りのようで、なんだか気味が悪い。


 棒の横から噛み付いたバニラアイスが妙に甘ったるい。棒をくわえたまま大きく気を吐く。

 どんなに見覚えがないとはいえ、ここは山道。下っていけば良いのだ。冷静になれ、まだ怯えるような時間じゃない。


 きっと自分は疲れているのだ。受験やら成績やら、思い通りにならない現在と思い通りになりそうにない未来に疲れているのだ。

 自分の未来を己の過去と重ねているのかは解らないし、単純に自分のことを思って親や先生は「勉強しろ」と言うのだろう。もし、自分のことを思っての行動ならば放っておいてほしい。今は負荷だ。勉強なんていつかやるから。


 ──そんなことで徒然としているから疲れる。だからこんなワケのわからない場所に辿り着いてしまったのだ。 


 倒れてきた草をかき分け、顔元を飛ぶ蚊柱を手で払って獣道を下る。

 横に伸びた畦道と水田が見えてくる。この畦道こそ歩いてきた道だ。自分はわざわざ横道に逸れたのか。いや道なんて無い──といささかの疑問と違和感を覚えつつ藪を抜け出した。


 ズボンに引っかかった茎や葉を払い、足下で聞こえる河鹿の声に驚く。やっと見据えた正面、そこにはバス停があった。

 朽ちて赤茶色く変色した標識、その奥には蔦の絡んだ待合小屋が佇んでいる。道の方へ口を開けた木造の小屋だ。こんなもの来る途中では見かけなかった。

 苔が生えてボロボロの屋根には風鈴が揺れ、大きく『氷』と描かれたかき氷の暖簾も目に入る。中には達磨や折り鶴、笹の葉と短冊──端的に言えば散らかっている。


 ベンチの上に座布団が敷かれ、天井にはランタンの様な物が吊るされている。まるで、誰かが住んでいる様だった。自販機の横のゴミ箱を勝手に持ち去る人間の集落だ。それもあり得るだろう。


 空はもう暗い。遠く微かにオレンジ色が見えるが、それらが消え失せるまでは数分ほどだ。


 ぽつり、とリュックのベルトに雫が跳ねた。それは肩に続き、頭頂部にも降ってきた。遠くで青白く空が割れて、遅れて轟音がやってくる。


「うわ⋯⋯、雨かよ⋯⋯」


 咄嗟に正面の小屋へと少年は走る。その身体が小屋の敷地に収まった刹那、水桶をひっくり返した様に雨が激しくなった。道が白く揺れている。

 本降りになる前に屋根の下へ入れてよかった、と安堵しつつベンチの座布団に腰掛ける。誰か来るわけでもないから堂々と真ん中に座った。


 雨脚が遠のくか弱くなるまでここにいよう。濡れるのは御免だ。夕飯の時間に多少遅れたとしても、この雨ならば察してくれるだろう。それに夕飯はどうせ蕎麦だ。

 膝に抱えたリュックからラムネの瓶を取り出す。握ると水滴がついている。中にしまうべきではなかったかもしれない。玉押しを飲み口に合わせて強く押すと、ビー玉が落ちて泡が昇ってきた。漏れないように、さらに強く押さえているうちに泡が引いていく。完璧だ。


 ラムネをしばらく喉へ傾け、息が漏れる。こんな田舎でも変わらぬ味だ。

 アスファルトの湿る匂い、田と田の間の水路の流れが速くなっている。水が溢れてきたら帰るべきか。しかし、ここを出て濡れたくはない。


 どちらを選んでもマイナスな結果が待っている選択肢は嫌いだ。そんな選択肢でこの世の中は成り立っていると言っても過言ではないのだけれど、それならば日々を笑って過ごしている連中は、一体何を選んでいるのか。それとも何かを棄てているのか。

 少年は目を瞑って首を伸ばし、天を仰ぐようにして壁に頭を預けた。壁の向こうをぽたりと伝う水滴の音が聞こえ、河鹿の声は心做しか煩くなった──



「おまえさん、そこのおまえさん」


 そんな声が聞こえた。涼やかな声だ。すぐそこで鳴っている風鈴のような、か細くて儚げな少女の声。やけに古風なその声は少年のすぐ右隣で響く。いつの間に隣に座っていたのか。

 慌てて少年が目を開けると、椅子に手を付き、こちらへ身を乗り出す形の少女がいた。絞り染めで花っぽい模様の施された甚平、だろうか。淡い青をした着物は少し肩が余っている。


「それ、手に持っているその瓶──」


 少女の言葉を受けて己の手元へと視線が滑る。一口飲んだだけのラムネの瓶だ。まだビー玉は沈んでいる。


「飲みたい、の⋯⋯?」


 少年の視線がラムネの瓶と、猫を彷彿とさせる少女の目を彷徨う。初対面の人間にそんな図々しいことを頼める人間が現代に生き残っていたのか。


「やはり水か。ちと分けてくれ、喉が渇いた」


 新手の詐欺か、とあれこれ考えを巡らせる少年の手から瓶がひったくられた。声にならず吐息として漏れた驚きを横目に、少女は瓶を両手で握ってぐびぐびと中身を流し込んでいく。

 そこそこの量が少女の体内に収まったであろう頃、少女の眉間にシワが寄り、怪訝そうな顔をして瓶を口から離す。


「なんじゃこれ、辛いなぁ⋯⋯」


 辛い、とはどういうことだろうか。ラムネを飲んだ感想としてはいささか斬新だ。炭酸で喉が痛いということか。

 「ごちそうさん」少女はそう言って少年の腿に瓶を置く。あっけにとられて頭の回らない少年は唇を舌で湿らせて言葉を探す。


「え、と⋯⋯。君も雨宿り?」


 少女は、ぼけーっと雨の弾ける様を眺めていた。自分の声は届いているのだろか。少女は随分と小さい。肩に届かないくらいの短めの黒髪。小学五年生くらいなのだろうが、ここらに小学校があるという話は聞かない。自分と同じく、盆参りに帰郷したのだろう。

 できる限り犯罪的にならない場所──少年は少女の肩を叩いた。


「聞こえとる。レデーを急かすな」


 そう時間のかかる質問をしたつもりのない少年は、反応に困って己の後頭部を撫ぜる。視線を少女から外の景色に逸らすと「そちらは?」少女から質問が帰ってきた。


「そりゃ⋯⋯雨宿りです」


「ふぅん」


 少女はどこか上の空。興味無さげだ。

 退屈そうに少女が足をぶらつかせる。からりころんと小気味良い音が響く。何か会話をしなくては、そんなことが少年の頭をよぎる。が、この娘は他人だ。無理して会話する必要なんてない。直に親が迎えに来るはずだ。


 少年がリュックからキャラメルの箱を取り出すと、少女もそれに興味津々の

様子だ。食べる? と聞くのは野暮だろうと少年は無言で少女の手にキャラメルを渡す。

 包み紙を剥くのに必死そうだった少女を見るに見かねて、先に剥いた自分のキャラメルを渡し、少女のキャラメルを受け取った。「うまー!」と、ご満悦の様子だった。


 強くなっていく雨脚と河鹿の声にかき消されそうなヒグラシの鳴き声。少し風も出てきて、風鈴がチリンと揺れる。

 こうして自然の音に耳を傾けるのは嫌いじゃない。少女はキャラメルを口の中で転がしたまま何か鼻歌を歌っている。


「雨で寒かろうに」


 唐突に少女はこちらへ身を寄せる。開いた襟から覗く肌は透き通るように白い、いや少し透けている気がする。

 警戒心やらを抱く前に少女の小さな手が首筋に辿り着く。左手は耳の後ろから首筋を這い、右は鎖骨の上を滑るように肩へ。

 右の耳もとに少女の息が近づく。


「お前さん──」


 できることならばずっと聞いていたい心地よい声。言いかけの音を断ち切ったのはけたたましい電子音だ。

 視線は首から下がる紐を伝って自分の胸元へ。PHSが震えている。突き飛ばされるように少年は道の真ん中にいた。衣服が一気に濡れていく。


 振り返るとそこに小屋はない。ただ広大な水田が、雨に水面を揺らされているだけだ。大きく息を吐く。久々の呼吸である気がする。

 服が濡れて重くなっていくほど、自分の体に現実が戻ってくる。白昼夢というやつだろうか。

 それにしては、今もなお首筋に感じた息遣いを思い出せる。ふと、手元にラムネの瓶が無いことに気付く。あれはなんだったのか。あの少女はなんだったのか。


 祖母の家までは田んぼの間を一本道が通っているだけだ。迷うはずがない。雨だ、走って帰ろう。空はすっかり宵に沈み、今夜は星が見えそうにない。



 夕食は予想通りの蕎麦だった。お新香も出た。遅かったねぇ、という祖母の質問に対してどう答えたかは覚えていない。かなり茫洋としていたと思う。


 与えられた二階の自室、畳の上に少年は寝ころがっている。眩しすぎる白熱電球の周りを大きな蛾が一匹飛んでいる。

 もうしばらく宿題には手が付きそうにない。駄菓子屋で買ってきたキャラメルをひとつ口に転がす。

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