第45話:逆鱗



 ◆◇◆◇◆◇



 カレムのその場当たり的な提案は、明らかに現実逃避だった。けれども、私の隣に座る月の盾長官は逃亡を許さない。


「いい加減にしろ」

「ひいッ!」


 アシュベルドが静かに一言告げただけで、社長は縮み上がる。


「も、申し訳ありません! 申し訳ありません!」


 机に頭を叩きつけんばかりに謝るカレムを無視し、アシュベルドは大げさに腕を組む。


「これ以上私の貴重な時間を、貴様のその愚にもつかない低能な思想の垂れ流しで浪費するつもりか。恥を知れ」

「すみませんでした!」


 今度はカレムは椅子から立ち上がると、腰を折って深々と頭を下げる。絵に描いたような謝罪の姿勢だが、その程度で我らが月の盾の大隊長の怒りがおさまるはずもない。彼は長官の逆鱗に触れたのだ。


「月の盾は貴様の下らない自己顕示の道具ではない。貴様は連邦国民のために日々血族と戦う私の傘下を、不当にも私的に利用しようとしているのだぞ。貴様にそのような権利は一切無い。貴様は腰抜けの裏切り者だ。いや、血族に対する反戦論者に違いない。今すぐ国家反逆罪で逮捕するべき犯罪者が、私の前にしゃしゃり出てくるとはな」


 まさに一罰百戒の精神だ。


「申し訳ありません!」


 とにかくカレムはひたすら謝罪に徹する。それもそのはず。何しろ端から聞いても、アシュベルドの言っていることは半ば言いがかりである。確かにこの社長の態度は実に不愉快だが、だからといって思想犯もしくは国事犯ではない。だが、アシュベルドの言葉は彼を勝手にそう決めつけているのだ。


「私は貴様のような、自分の出自と国籍と血筋だけで大きな顔をする恥知らずが一番嫌いだ。貴様、わざと私を怒らせているな。誰の差し金だ?」

「滅相もございません!」


 しかし、面と向かってカレムがアシュベルドの決めつけを否定できるはずがない。何しろ相手は月の盾の長官であり、冷徹な黄金の鷹、言わば秘密警察のトップのような存在だ。


「だとしたらなおさら度し難い。九枝人? 連邦人? それがどうした。私にとっては有用な者こそが正しく、有益な者こそが勝者だ。貴様のような自分の血筋にあぐらをかく粗大ゴミこそが、この連邦を腐敗させていると知れ。貴様は連邦の国益に何ら貢献しない、非生産的な事大主義者だ。顔を見るのもうんざりする。どこへなりとも消えて失せろ」


 アシュベルドの憤激の理由はこれに尽きる。九枝人というだけで狭量に振る舞う人間が、彼にはどうしても我慢できないのだ。


「申し訳ありませんでした!」


 カレムにできるのは、ひたすら頭を下げてやり過ごすだけだ。彼からすれば、今にも長官の命令一下、月の盾の職員が部屋の中に乱入し、自分を連行するのではないかと恐れているのだろう。


「燕雀寺祢鈴、この者の処遇について、貴公に何か案はあるか?」


 不意に、アシュベルドが私の方を見る。


「そうですね……」


 私がもったいぶった態度でカレムを見ると、彼は「ひぃっ!」と叫んで縮こまる。今の私たちがどう見えているのだろうか。秘密警察の長官と、サディスティックな副官かな。ならば、そう演じてみせようじゃないか。


「君、チャンスが欲しいかね? 今の君は面目丸つぶれ、長官殿のブラックリストの筆頭にあげられている状態だ。何とかして、そこから這い上がりたいと思わないかな?」

「で、で、できるのでしたら是非! 是非!」


 奈落の底に垂らされたクモの糸にすがるかのように、社長は私に助けを求めてくる。


「ならば、君が一顧だにする価値さえないとした、イニーネ・ランズベリカーの企画を次の会合までに持ってきたまえ」


 カレムがぽかんと口を開けたので、私は彼を追い詰める。


「おや、その顔は何だね? 長官殿、彼は私の提案に異議があるそうですよ」


 大げさに私がそう言うと、社長は跳び上がった。


「滅相もございません! ただちにそうします!」


 ここでさらにアシュベルドの心象を悪くしたら、今度こそ自分はおしまいだ、とカレムは思っているのだろう。とどめとばかりに、私は彼に顔を近づけ、耳元で意味深に囁く。


「長官殿は、彼女の企画に興味を示しておいでだ。くれぐれも、長官殿をこれ以上失望させないでくれたまえよ」

「は、はい! 今すぐそうします! 絶対にそうします!」


 冷や汗をぽたぽた垂らしながら、カレムは床に頭を擦りつける。


「大隊指揮官殿、これでよろしいでしょうか?」


 私は黄金の鷹に心酔する腹心を演じつつ、アシュベルドの方を見る。


「及第点としておこう。興が大いに削がれた。帰るぞ、燕雀寺」

「心得ました」


 かくして、カレムとの会合はお互いに不快なだけの一方通行のまま終わったのだった。





 ……間違えた。間違えた。何もかも間違えてしまった。カレム・ハウストゥーフは無能な部下を呪い、競合する他の出版社を呪い、果ては連邦の政治と経済を呪った。なぜ自分はあの黄金の鷹に対し、あんな不作法に振る舞ってしまったのか。それが日頃の社員に対する傲慢な態度から出たことに気づかず、カレムはこの世の全てを呪い続けていた。



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