第35話:脆弱



 ◆◇◆◇◆◇



 夕食を終え、件のソファのある部屋で私が座って待っていると、遠慮がちなノックの音が聞こえてきた。


「どうぞ、入ってくれたまえ」


 私がそう言うと、おずおずとドアが開かれた。


「ど、どうかな……? 今、大丈夫?」


 案の定、そこにいたのはアシュベルドだった。


「もちろんだとも。君を待っていたんだ。遠慮なく中へどうぞ。歓迎するよ」


 昼間、ついに私が入手したソファを試す時間ができたと彼の口から聞いたのだ。


「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて……」


 いそいそとアシュベルドは部屋に入ってくる。その口調は、普段のカリスマ性に満ちた冷酷なものではない。今の彼は畏怖すべき黄金の鷹ではない。アシュベルド・ヴィーゲンローデという一個人が、私の前に立っているのだ。


「これが、例のソファ?」

「そう。人呼んで『人類を堕落させるソファ』とはこのことさ。もちろん危険性はないよ。これに座って日頃の疲れを癒し、ストレスを霧散させてくれたまえ」


 何はともあれ、私はこのソファの安全性を保証する。


「わ、分かったよ。じゃあ、座るから」


 幸い、彼はそんなに疑う様子もなく、私が促すままにソファに腰掛けた。


「うわあぁ……あははぁ…………」


 人類を堕落させるソファは、たとえ相手が月の盾の長官であろうとも容赦しなかったらしい。クッションに沈み込みながら、アシュベルドは気の抜けた声を上げる。


「どうかね? 座り心地は」

「さ、最高……だね……」


 その絶妙に緩んだ声と表情。いやはや、これは何というか、余人にはとても見せられないね。


「……鈴」


 不意に、彼の方から私の名を呼ぶ。私のことを愛称の「鈴」で呼ぶのは、家族以外では彼だけだ。


「何だね?」

「いつもありがとう」


 その物言いは、どことなく少年のような言い回しだった。軽い退行だろうか。


「こんなにいいものまで用意してくれて、本当にありがとう」


 私は彼の言い回しに危ういものを覚えたので、ついはぐらかす返答をする。


「はっはっは、何もこれは君のためだけに誂えた家具ではないよ。どちらかというと、私の興味の産物さ。結果的に、君のお気に召したようで実に一挙両得だね」


 すると彼は黙り込んだが、何か言いたげでもあった。


「……どうかしたかね?」


 私が問うと、長い間彼は沈黙していたが、やがて口を開いた。


「鈴には、さみしい思いをさせちゃっている」

「今日の君の発言は藪から棒だね。いったいどういうことだい?」

「君を神州から連邦に呼んだのは俺だ」

「それは知ってるよ」

「ご両親からも、友達からも引き離して、君を知らない国に住まわせたのは、この俺なんだ」


 アシュベルドが、己の心の中に描いた心象を言葉という媒体に書き換えて語る。私は、蜘蛛の糸を手繰るように耳を傾ける。


「ずっと思っていたんだ。俺の招聘に応じたことを、君は後悔しているんじゃないかって」

「何を馬鹿な……」


 つい、私は彼の言葉を否定してしまう。


「……でも、俺は嬉しかったよ」


 アシュベルドの天井を見つめていた顔が、私の方を向く。ぼんやりとした表情だが、彼の顔の造作が嫌みなくらい整っているため、ただそれだけで絵になる仕草だ。


「君がここにいてくれたおかげで、俺は何度も救われた。誰にも話せないことを君になら話せるし、誰にも見せられない顔を君になら見せることができる。それが、どんなに俺にとってありがたかったか」


 罪深き連邦国民よ。黄金の鷹の翼下に集う無責任なひな鳥たちよ。君たちが崇高な救世主、あるいは未来の独裁者と慕うのは、等身大の青年なんだぞ。


「ままならないね。君に無理をさせていることが分かっているのに、俺はそ知らぬ顔をしたままそれを続けようとしているんだ」


 それは、思いもよらなかった告白だった。私を連邦に招いたことが、彼の心のどこかで棘となって刺さっていたなど、私は想像もしていなかった。何気なく身じろぎした私に、彼の手が伸びた。私の細腕を、彼の手がつかむ。


「どこにも行かないで」


 握る力は決して強くはない。まるで、途方に暮れた迷子がすがってくるかのようだった。私が、彼を置いてどこかに去ってしまうと感じたのだろうか。


「このまま、隣にいてほしいんだ」


 アシュベルドは言葉を続ける。


「俺を一人にしないで」


 私の知る彼は、こんなにも弱々しかっただろうか? 


「君は…………」


 私たち御伽衆は、心の急所が分かる。アシュベルドは今まさに、その急所を完膚無きまでにさらけ出していた。今ここで、私が一言何か言えば、それはたやすく彼の行動を根底から支配する暗示となるだろう。


 ――でも、だからこそ。


「……やれやれ」


 私は私の腕をつかむ彼の手に自分の手を添えてはずすと、大きく一度手を打ち鳴らした。


「さあ、今すぐ起きたまえ! ほら!」


 それだけで、アシュベルドは目を覚ました。


「え!? あ、あれ!?」


 目を白黒させてソファから上体を起こす彼に、私はにやりと笑って見せた。


「目は覚めたかね?」

「ええと、俺は変なことを言った……かな?」

「一笑に付せないが、かと言って深刻に受け取るほどでもない、実に微妙な内容だったね」



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