第33話:催眠



 ◆◇◆◇◆◇



 私の名前は燕雀寺祢鈴。故郷の神州を遠く離れ、ここ連邦で暮らす身だ。血族という吸血鬼紛いの連中を狩る組織「月の盾」で相談役の仕事に就いている。権力者の傍で悩みを聞く「御伽衆」という家業を生かすことができて、境遇としては実に申し分ない。一重に私を見いだしてくれた月の盾長官、アシュベルド・ヴィーゲンローデのおかげだな。


 これは、そんな私のとある日常だ。


「ついに届いてしまった……」


 月の盾本部の一室が、先日注文した家具によって占有されていた。


「これが件の『人類を堕落させるソファか』……」


 私の視線の先にある大きなソファの色は灰色。分厚いクッションと、上に掛けられたふかふかの毛布によって装われたソファは、私に向かって優しく手招きしている。


 曰く「人類を堕落させるソファ」。基本的に物品に頼らず、自らの口舌と操る施術で人の心に働きかけるのが我ら御伽衆なのだが、今回私は興味を引かれてこのソファを購入してしまった。もちろん経費でだが? 私は、ソファの上にかかっている毛布を撫でる。子ネコのような手触りだ。続いて軽く手に力を入れる。適度な弾力が返ってきた。


 灯蛾、とはこの事を言うのだろう。私はソファの魅力にあらがえず、思わずその上に腰掛けた。背もたれを倒し、天井を見つめる体勢で横たわる。


 ――――脱力。

 ――――放心。

 ――――悦楽。


 そして同時に私は確かに見た。全身を弛緩させ、ややだらしない顔で虚空を見つめる、長い黒髪と桜色の着物姿の女性を。……は!? 私じゃないか!?


(意識が遊離しただと!? 座っただけで!?)


 私は慌てて意識を五体に引き戻し、ソファから跳ね起きる。恐ろしいほどの即効性だ。ただ座っただけで、あまりの心地よさに放心状態になり、意識が霧散する。私は生唾を飲み込みつつ、自分の内から好奇心がわき上がってくるのを感じていた。


「これを使って傾聴を行ったら、果たしてどうなるか……」





 それから数日間、私は様々な月の盾の職員をこのソファに座らせて反応を記録した。「自分は催眠などには絶対負けません!」と豪語する巨漢が、座ると同時に私をママ呼ばわりして甘えてきたのには、正直言って引いたね。どうやら、私の存在が座る人をリラックスさせる重要な要因となっているらしい。ならば、極めつけの変人はどうだろうか?


「多忙な身でありながら、協力に感謝するよ。ミゼル・オリュトン」


 私が部屋に招いたのは、月の盾きっての問題児であるミゼルだった。外見は眼鏡の似合う知的な金髪の美人。しかしながらその中身は、暇さえあれば経済書やビジネス書から得た知識を周囲に振りまく折紙付の変人である。溢れるほどの自意識の高さが、全身から常時放射されている。


「いえいえ。祢鈴さんのようなメンタル&マインドにおけるニュートリショニストとしての活動は、私も大いにリスペクトしてますから。互いへの協力こそ、コ・プロスペリティーへのワン・ステップです」


 ……まあ、こうなのだ。一度ミゼルが口を開けば、そこから機関銃のように乱射されるのは高尚とおぼしき謎に満ちた表現ばかりなのである。


「ここに座ればいいんですか?」


 ミゼルは私を信頼しきった様子でソファに腰掛ける。


「そうだよ。遠慮なくどうぞ」


 私もソファの隣に置いた椅子に座る。


「ふひゃぁぁぁ…………」


 彼女の口から、気の抜けきったふんわり、もしくはふにゃりとした声がもれていく。手に取るかのように、ミゼルの全身の筋肉が弛緩し、精神がほぐれていくのが分かる。


「くつろげるだろう?」

「そ、そふみたひでふ……」


 ミゼルの答えはろれつが回っていない。あの長広舌と屁理屈の申し子さえ陥落させるとは、恐るべし「人類を堕落させるソファ」。


「では、簡単な実験を少し行おう」

「はひ……」


 私は御伽衆の顔と声でそう言う。


「今から言う単語から連想するものを、思ったまま口にしてみてくれ」

「了解でふ……」


 ちょっとした心理テストだ。


「山」

「……緑」

「ガラス」

「……透明」

「病気」

「……病院」


 だが、私が何気なく次の単語を口にした瞬間だった。


「お金」

「基本的ビジネス・アライアンスにおける契約とエネルギズムの象徴であると同時に、マーケティング・インフォメーションを包括的にローテーションさせる非構造的ファクターです」


 あろうことか、ミゼルは上半身を起こして私をしっかりと見つめていた。


「そうなのかね?」

「そうなんですよ! お金は現在のエゴイスティックなノー・ワーク・ノー・ペイのマネー・グラビングによって必要悪とされていますが……」


 とまあ、後は想像通りだ。ミゼルは理想的経済論についてひとしきり論じた後、生き生きした顔で帰っていった。


「これでよく分かったよ」


 ミゼルのケースで納得した。どうやら、このソファに腰掛けた人間は、極めて即効性の催眠状態になるらしい。一見するとこれは深いようでいて、その実すぐに冷める浅いものだ。さて、いよいよこれで本命を迎える準備が整えられた。もちろんその本命とは、月の盾長官ことアシュベルド・ヴィーゲンローデである。



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