第5話 動物園の動物は生まれ故郷の夢を見るか?
大学から離れた、市を跨いだところに公立の動物園がある。いまじゃ寂れてしまって閑古鳥がないているけど。
お金があまりかけられていないのか、目新しいものは特に無い。というか、小学校の遠足に来た時とほぼ同じだった。
黒い汚れが染み付いた赤レンガの道路。古めかしい土産物屋に軽食屋。昔なじみのちゃちなお化け屋敷やミラーハウス等のアトラクション。ペンキで塗られた凸凹の白や水色のコンクリートの檻。動物紹介の鉄プレートですら赤錆びてて読みづらい。あまり儲かってないのか、老朽化が激しかった。
「昔の日本人って虎やライオン、象を見たことがなかったんだって」
「それがどうかしたの?」
むにゃむにゃと、生い茂った人工の森の中でゴリラがごろんと寝てる。熱帯地域を模した緑園の草木に包まれてのんびりしている様が、愛嬌があっていいなぁって思う。
2人でじっと、柵越しの動物を上から眺めていると、ちょくちょく果南がトリビアを語ってくれた。
「江戸時代あたりで興行師が輸入するまで、虎や獅子は中国の絵画や仏典の書物でしか見ることが出来なかった。だから、みんな想像で描くしかなかったらしい」
たしかに、日本で虎や象が生息していたなんて聞いたことがない。
「伝説上の生き物を間近で見た人って、感動したのかな」
「したんじゃないの?」
「ゴリラだって、動物園に行けないとまず見れないでしょ。だから、動物園はこの世の理から離れた隠り世……異世界みたいなものだと僕は思ってる」
「非日常みたいな。感じなのかな?」
ペンキが禿げてる赤い鉄柵に肘を当てて、嘆息しながら私の顔に振り向く。
涼し気な黒い半袖シャツに、サングラスと麦わら帽子を併せた夏向けのファッション。小さく微笑む姿は、果南の美人さを際立たせていた。
「うん。小さい頃は好きだったなぁ……ここだけは窮屈な日常から離れられる気がしたから。それに、この動物園特有の糞混じりの臭い。人間よりも愛嬌のあるプリティーな生き物。ゴリラだって、めちゃくちゃ可愛いく見える」
「よく見たら可愛いような。人間の男よりは勇ましくてマッチョでいいなって思った」
「言えてる。ゴリラの腕力なら男どもなんざ一握り。やっぱ、なよなよしくさる男どもはダメだわ」
のそのそと背筋を曲げて歩くゴリラを果南と一緒に目で追う。晴天が照らす中、忙しい人間とは対照的に、とっても穏やかな生活を楽しんでいるような気がした。でも、故郷から離れて、檻の中でしか生きれないのはどうなんだろうか。
「果南はなんで、男が嫌いなの?」
前々から思っていた疑問をこの際思いっきりぶつけてみた。なんで、今までしなかったのか不思議なくらいに。
少し沈黙してから、果南はサングラスを外してニコっと微笑んだ。
「悪い男に嫌な目にあったから。実にシンプルでしょ?」
「確かに……」
それ以上は語らないってことなんだろう。けれど、答えてくれることが嬉しかった。
涼しい風が私の水色のスカートをたなびかせる。茶髪の毛が少しだけ頬についてくすぐったい。
苦々しい思い出なのか、少しだけ悲しい表情をしてみせる果南に、幾ばくかの罪悪感を覚える。
「けどね、善良な男の人に助けてもらった。だから僕は人間に絶望しなくて済んだ」
「その人が居なかったら、今の果南は居なかったんだね……」
「少しだけ、信じられるようになった、かな。その人にね、僕はフラテルニテを教わった」
男嫌いの理由は分かったけど、悪い男から救ってくれたのも男の人。これが因果って言うものなのかな?
小柄の白いボストンバックに入れてあったペットボトルに口をつけ、グビグビと生暖かいオレンジジュースを飲む。
「誰かに優しくすれば、必ず誰かが優しくしてくれる。僕はそう信じて生きてきたつもり。きっと、僕には安住の地があるって。僕の名前がカナンなのも、その証拠だって言ってくれた」
「カナンって、聖書で約束の地を表す言葉だっけ。乳と蜜が流れる川……」
「両親はそこから僕の名前を取ったはず。ちゃんと生きていれば、僕にも自分の居場所が出来る。赤いヒナゲシの花が咲くって」
寂しがり屋なのはそのせいか。果南は自分の居場所が欲しくて、私にべったり甘えてきたんだ。
申し訳なさそうに笑う果南に対して、自然と私の口から答えを出してしまった。
「私は、その……果南にとっての約束の地にはなれないかもしれないけど。それでも、今の果南は好きだよ。友達として」
「……うん。僕にとっても摩耶は大事な人。だから、離したくない」
肩を掴まれて、ぎゅっと抱きしめられる。まるでのしかかるように、私にしがみつく。
体重が私の胸元に押し寄せて、少しのけぞった。可愛い子グマみたいな果南の体を抱きしめ返してあげる。
「どうどう。果南って結構甘えん坊だよね」
「摩耶にだけ。僕はこうやって抱きしめることが出来る。信頼してるから、すごく」
端正な小顔で私の頬をこする。震えた声で心が少しだけ痛む。
ゆっくりと小さな背中をよしよしと擦ってあげて、果南の気持ちを落ち着かせてあげた。
「最後にハシビロコウ見たい」
元々の目的だったハシビロコウを見に、鳥類エリアへと歩いていく。
蔦が生い茂る水場の檻の中、水色混じりのグレーなハシビロコウはじっと鋭い視線で宙を見ているだけ。
果南と私も何も言わず、ただハシビロコウをまじまじと見ていた。この沈黙が、今の私達に必要だったから。
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