第3話 慈しみ深き
うちの大学はプロテスタントなので、般教にキリスト教学がある。
聖書自体初めて読むけど、1000Pを超えるものを持ち運ぶのはとっても大変だった。
「いつくしみ深き 友もなるイェスは 罪咎 憂いを とり去りたもう」
キリスト教学の授業とは別に、15分ほどのチャペルに通わないといけない。
高い天井に木目のオレンジを基調とした、穏やかな感じの礼拝堂で行われている。
私は机に入っている賛美歌の歌詞を、目で追いながらたどたどしく歌っていた。
「心の嘆きを 包まず述べて などかは下ろさぬ 負える重荷を」
隣で歌っている果南は、歌詞を読まずともスラスラと歌ってる。
「家がクリスチャンだったから、覚えてた。と言っても、子供の時だけ」
だから詳しいのかと頷いてしまった。聖書を見ずとも暗唱できちゃうから、熱心なお家だったのかな。
木製の横に長い角ばった椅子に座ってから、私達は教授の訓戒を聞いている。毎週、別の教授が色々な事を話してくれるらしい。
「我々日本人は無宗教であると言われているが、アメリカ人の牧師が不思議そうにこう聞いてくる。
『あなた方の道徳を保証するものはなにか?』
このコメントは宗教に馴染み深い欧米では不思議に思うらしく、まっとうな意見であると私は思う」
倫理学の年老いた男性教授が語っている最中、またも果南は私の手を握る。
キリスト教学の授業でも同じように私の手を握ってた。赤いマニキュアが塗られた長くて綺麗な指で、普段よりも強く握ってきた。
「ねえ、フラテルニテってどういう意味なの? 一応、調べてみたけど、フランス語で博愛・友愛って意味らしいね」
調べたは良いけど、詳しいことは分かんない。
フランス革命で共和制になった時のスローガンらしく、それ以外はあまり理解が出来なかった。
「自由・平等・友愛の中の1つ。他者に害されない人間として生きる自由、法の下の平等な人権、ありとあらゆる人を慈しむ友愛。僕はその中で、一番フラテルニテが好き」
「慈善活動ってことなのかな……ボランティアサークルに入ろうとしたのもそのせい?」
「近いっちゃ近いかも。単純に入ってみようかなーって考えてただけで、まさかあんなことになるとは思っちゃいなかった」
あははとお互いに乾いた笑い声。大学生でこんな目に合うって、相当運が無いんだろうなぁ。
「私、もうサークル入るの諦めようかな。だって、また絡まれたら嫌だし」
「うちの大学自体、キリスト教だから。そういう人たちが集まるらしい」
「さらに行きたくなくなってきた………大学の青春が一部なくなっちゃった気分。はぁ………」
落胆して、ため息を付いて。もうどうしようもならないんだから諦めるしか無い。
これからの大学生活、どうすればいいんだろうか? マジでへこむわ。
「ぶっちゃけた話、僕は別に社会貢献がしたいわけじゃない。本来のフラテルニテは全ての人間が生きやすくするために、お互い思いやり、優しく生きる社会を作ろうって。みんなが手を取り合って世界平和をめざしましょーって。そのお題目が僕にとって鬱陶しく思える」
果南らしくもなく、なにか恨みをはらんだような言葉。少しだけ饒舌にというか、なにか思うことがあるのかもしれない。
涼しい顔の中にも険しさを感じて、私は少しだけ話を変えることにした。
「でも、私には優しくしてくれたじゃん」
「ワールドワイドに考えるつもりはなくて、ただ私の近くにいる人にだけ優しくしたい。だから、摩耶のことを選んだ」
「なんというか、ありがとうって言うべきかちょっと迷った」
果南は私のことが気に入ったってことでいいのかな。向こうからのスキンシップが多いし。結構な頻度で私の体や手を触ってくるし。時折背後から抱きつかれるのには未だに慣れない。シトラス混じりの良い匂いで少しだけくらっとする。
「隣人愛。ただ、僕は自分の隣りにいる身近な人のことを大切にしたいだけ」
「告白みたいに聞こえてちょっと恥ずかしい」
一匹狼なタイプなのかなって思うけど、案外寂しがりなのかも。人間関係を積極的に広げたい感じじゃないんだろうなぁ。
相変わらず、私の手は握ったままで、一緒にチャペルを聞いていた。
「ちょっとだけ告白要素は混じってる」
「え? どういうこと?」
唐突な宣告に、私はきょとんとしてしまう。相変わらず、果南は涼し気な表情のままだけど。
「サークル、僕も入んないし。その間は僕と一緒に遊んだりしようよ」
「いいけど……ひぅ!?」
私の耳元に林檎色の唇を近づけ、耳朶をくすぐるように囁いてきた。
「僕、摩耶のこと好きかも」
蜂蜜よりも甘ったるい言葉。私の耳は真っ赤っ赤に熱くなり、鼓膜がとろけそうになる。
今、果南はなんて言ったの!? ガチで告白してきたってことかな。友情ってことかな。友愛? フラテルニテ?
何を持って果南が告白してきたのかは分からない……本心なのかな。いたずらなのか。現在の私では答えが見えなかった。
ああ、めっちゃモヤモヤする! 気が気でならなくなっちゃって、私はチャペルが終わった後も、悶々としていた。
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