第24話 はじめて

「お姉ちゃん、そんなに研いでると爪なくなっちゃうよー」


 からかい混じりにそんな忠告をしてくれた妹が出かけてからもミーアはしばらく爪を研ぎ続けていた。


「にゃうにゃう」


 どう言ったらいいのか分からない感情はその鳴き声にしかならない。

 ミーアにだって自分に何が起きたのかさっぱり分からないのだ。


 クレオパスは人間だ。怖い人間なのだ、と自分に言い聞かせる。でも、自分の心はそれを全く受け入れなかった。


「にゃぅーーーー!」


 ついにミーアは爪研ぎに寄りかかりながら困った声を出した。


 嬉しかったのだ。ミーアはハーフ獣人のため軽く差別され、今までプレゼントなど滅多にもらった事などない。くれるのは大体家族だ。

 なのに、外部の、それも人間がミーアにプレゼントをくれた。それもアクセサリーである。


 もらった時は純粋にはしゃいだ。貰ったヘアクリップはとてもミーア好みのデザインで可愛らしかったし、その行為自体が嬉しかったからだ。


 だからお礼を言おうとクレオパスの方を見た。


——ありがとう! あたし、男の人から物をもらうなんてはじめて!


 ミーアは無邪気にそう言おうとした。だが、次の瞬間それを飲み込んだ。その意味が分かったからだ。


 クレオパスは『男の人』だ。獣人ではない人間とか、そういう事を取っ払ってしまえば、彼はただの『男』なのだ。

 あの時、ミーアは一瞬でそれを理解してしまった。


 それを自覚した後はとても恥ずかしく、その場から逃げ出す事しか考えられなかった。あんな素敵な物をくれたクレオパスには悪い事をしてしまった自覚はある。おまけに、後片付けまで押し付けてしまった。彼は相当ご立腹だろう。


 ヘアクリップは机の奥に大切にしまってある。明日はこれでオシャレをするのだと思うと落ち着かない。


 クレオパスにとってはただの身を守る装飾品を渡したに過ぎない事はミーアもきちんと理解している。でも嬉しいのだ。


「あっ! そうだ!」


 そこで明日の洋服を選んでいなかった事を思い出す。オシャレするには服選びは不可欠だ。

 すぐに洋服ダンスに飛びつく。


「えーっと、これは合わない。これはひらひらで畑仕事には向いてない。これは……」


 にゃあにゃあと一人で大騒ぎしながら服を一着一着体に当てる。ヘアクリップに合いそうだと思うものは実際に着て試してみる。ついでに服に合わせて髪型も考えてみる。


 ミーアはこういう事が大好きだ。

 妹に全く理解されないというのが残念だが、それは仕方のない事だ。きっといずれはリルもオシャレに目覚めてくれるだろう。実際今日だって友達と一緒にショッピングに出ているのだ。帰ったら着てみせてもらおうと決める。


 夢中で服選びをしていると控えめなノックの音がする。リルならそのまま飛び込んでくるはずだ。両親が帰って来たのだろうか。


 窓の外を見てもそんなに時間は経ってないように見える。一体何があったのだろうか。


「誰? お父さん? お母さん?」

「ミーアさん、おれです」

「にゃあ!」


 クレオパスだった。ミーアはいつもの癖で悲鳴をあげてしまう。

 ドアの向こうから戸惑ったような空気が流れた。


「ご、ごめんなさい。クレオパスさん、どうしたんですか?」


 なるべく落ち着いた声に戻して返事をする。


「いや……その、なんか、さっきミーアさんを怒らしちゃったみたいだから……謝りに……」


 その言葉にミーアは戸惑った。


 ミーアは怒ってはいなかった。でも恥ずかしさのあまり急いでいたので、クレオパスにはそう見えたのだろう。

 つまり相当酷い態度だったのだ。


「……あたし、怒ってませんよ」


 でもやはり恥ずかしいのでそれだけしか言えなかった。


「それならいいんですけど……」


 クレオパスも気まずそうに口ごもっている。


 自分の家の中なのにこんな気まずい空気は嫌だ。きちんと話さなければならない。ミーアは思い切ってドアに手をかける。


 そして少し開いた所でとんでもない事に気づいた。


 先ほどまでミーアは服選びをしていたのだ。そして、今は下着以外何も着ていない。


「ニャ、ニャア! スケベ!」


 自分でも何がなんだか分からないままドアを思い切り閉じた。


「……は?」


 そして、次に聞こえたクレオパスの声で自分が何を言ってしまったのか気づいてしまった。


 明らかに彼の声は苛立っていた。当たり前だ。ミーアが悪いのに変態扱いをしてしまったのだ。誰だって怒る。


「ごめんなさい! 今、着替え中なんです!」


 そう叫ぶと、クレオパスが焦った声をだした。『えぎうっ……!』としか聞き取れないが、きっと意味はないのだろう。


「あ、えっと……じゃ、じゃあおれ部屋に戻ってます!」

「待って!」


 慌てたように遠ざかろうとする足音をつい呼び止める。クレオパスが『ん?』という声を出したのが聞こえた。そして律儀に戻って来てくれる。


「リビングで待っててください。着替えたらあたしも行きます」

「え?」


 クレオパスが戸惑った声を出す。無理もない。この一ヶ月、ミーアがこんな提案をした事はない。いつもは家では互いの部屋で自由にやっている。その方が自分の精神安定上いいのだ。

 それでもこれではいけない事はミーアにも分かっていた。


「もう気まずいの嫌なんです! あたしの家なのに!」


 適当に理由を付けるつもりだったのに、つい本音を言ってしまった。扉の向こうから小さく笑う声が聞こえる。何か馬鹿にされているようで腹が立つ。


「笑わないでください」

「ごめんごめん」

「なんかリルがイタズラして謝ってるの聞いてるみたいですっ!」


 腹立つあまり本音をばんばん言ってる気がする。クレオパスの笑い声が大きくなった。覚えがあるのだろう。一ヶ月一緒に暮らしていればそういう場面は嫌でも見る事になる。


「それリルさんが聞いたら怒りますよ」

「そうですね。リルにはナイショに……」

「……はい、分かりました」


 クレオパスはまだ笑っている。ただ、場の空気が和やかになったのは分かった。


「リビングに行ったら何か美味しいものでも飲みませんか?」

「そうですね。だったらおれ手を洗ってきます」


 それは了承の返事だ。すぐにクレオパスが洗面所の方に歩いて行く足音が聞こえた。


 自分は少しは頑張れただろうか。


 少しだけ心がくすぐったいような、そんな気がした。

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