短編:少女の絵

文学ベビー

『少女の絵』(一話完結)

 『少女の絵』


 私は、ほつれた襟元のボタンの紐を、親指と人差し指で丸めていた。暑い・・・・・・。こう暑くては、煙もそう美味くはない・・・・・・。煙草の匂いと油の匂いが混じった匂い。窓を開けるとそれらがスウッと外に流れていった。


 この日も、私は朝早くに起きて絵の具を混ぜていた。油絵だ。以前、たまたま足を運んだ美術館で、あの美しい、美しい少女の絵を見た。年頃は十五くらいだろうか。おかっぱの綺麗でまっすぐな髪をして、ウェディングドレスを思わせるような白い、レース生地のような服。その少女が横を向き、全くの無表情(いや少し俯いてすらいるかもしれない)で、背筋を呼ばし立っている。その少女の絵は、なんと言おうか、純粋そのものだった。そこに不純な欲求や、支配や所有といった欲は感じさせず、本当に純粋そのものだった。

 それ以来、私もその輪郭をなぞるように油絵に没頭していた。私は、私の理想とする女性を、勉学をそっちのけで描くことに囚われていた。そして、これは違う、これも惜しいと、途中まで描いては捨てていた。

 決して上手いわけではない。本職で絵を描く人ならまだしも、私にとって、将来これが助けになるわけなんかは全くないだろう。ましてや、私の理想が生む女性の絵だ。気色が悪がられても仕方がない。褒められたことでは、全くない。絵に夢中で本来すべきこと(大学生という身分ゆえ、勉学やら)から目を背けたことも幾度もある。

 だが、世の中の美徳や、流れに反する罪に追われながら描く。それはまるで、街で見かけた女性に手をかけるような、背徳感と欲望に塗れた作業だった。どうしようもない罪の意識、自傷のような否定が私を蝕んでいた。その悪き者が、必死に純粋さを描こうとしている。なんという阿呆らしさ。矛盾。それでも、辞められなかった。元々私は、人様に褒められるような崇高な道を歩くには値しないのだとも思っていた。

 しかし、授業の時間が迫るとどうしても、大学に向かわなくては落ち着けなかった。授業は退屈で、意味などは全くと言えるほど感じていなかった。しかしどうも、この手の背徳感は人を殺すらしい。仕方ない・・・・・・。


 大学に着くと私は正門近くの喫煙所で、一人、また一人と登校してくるのを見ながら、居心地の悪さを感じていた。すると、名前は後に知るのだが、船川という男が、突き出た顎を隠す様子もなくのっそりと私の右のほうに立った。

「火をくれ」

 船川が私の手元をジィッと見ながら言った。

 彼に対する最初の印象は、真面目で気味の悪い人間だというものだった。腰を下ろすや否や、教科書を開きそれをニタニタと眺めている。

 それからしばらくして、私と船川はよく話すようになっていた。どうやら彼も殆どの時間を一人でいるらしく、喫煙所で会うたびにちょっとした会話をするようになった。

 ある日、彼は私に突拍子も無いことを訪ねた。

「真面目さは、取り柄になるのかい」

 船川の目は、いつにも増して暗かった。

「僕は今、就活の真っ最中なんだ。どの企業も、僕がなぜ大学で物理を専門にしたのか、それでいて将来は何がしたいのか、何を目標にしているのか、聞いてくる。勉学だと答えると、それ以外でだと言って退ける。どうもその質問が僕には辛い。わかるかい」

「そんなのは面接官の十八番見たいな質問じゃないか。なぜ今更そんなのに悩む必要があるんだ。適当に、それらしいことをでっちあげればいいじゃないか」

私はあまり深く考えずに答えた。

「そうじゃないんだ。その場しのぎなんてのは僕にでもできる。でもそうじゃないんだ。今まで、勉強を真面目に頑張るというのはステータスだと思っていたんだ。そう教えられてきたようなもんだ。でも、僕がそう信じたかっただけなのかもしれない。僕だって別に勉強が好きなわけじゃない。ただ、言われた通りにやっていれば褒められたからやっていたんだ。それが急に、まるで勉強は二の次で、自分のユニークさを育てなかったやつは使えないクズのようないわれをする。裏切られた気分だ」

 船川はいつになく真剣に、そう続けた。どうやらこいつは本当に悩んでいるらしい。

「僕はね、死ぬんだ。近く」

 それはあまりに突然のことで、私は間抜けにホォと声を出してしまった。 

「なんだってそんなことを言うんだ。まだ社会にも出てないじゃないか。まだわからないじゃないか」

 慰める気も、ましてや彼を褒める気持ちはないが、私はそう返した。

「僕はダメなんだ。真面目さは取り柄にならないんだ」

 ジジッと蝉が鳴いた。多分、落ちたのだろう。ジュッと音を立てた後、妙に静かになった。船川はそれ以上、何も言わなかった。


 そこから数日、彼を見なくなった。私の脳裏には未だに、彼が死ぬと言ったことが渦巻いていた。

 真面目さは取り柄になるのか・・・・・・。十分になるだろうというのが私の率直な意見だった。真面目でいるのが、私にとってどんなに辛いことか。労力を使うことか。真面目といえば、きちんと授業に出て、きちんと課題をこなし、ということだ。私は、できることなら、ずっと絵を描いていたい。それは、世間でいう不真面目だ。しかし、できない。私は不真面目に魅入られながら、また完全に不真面目になることもできず、世論の圧力に負けて大学に通っている。決して真面目でも、完全に不真面目でもなく、中途半端に生きている。

 私から見れば、船川は確かに真面目と言える男だった。それは、賞賛に値する。少なくとも、私よりは。

 真面目さは取り柄ではないのか・・・・・・。なぜ、それを社会は評価しないのか。なぜ、散々、真面目に生きろと圧をかけながら、実際にそうしたものに対して称号を与えないのか。


 船川が「死ぬんだ」と告白したちょうど一週間後、彼は本当に死んだ。学部から自殺者が出たと言う噂が流れた後、ニュース番組でも、本当にちょっとした話題として取り上げられた。その噂も、事実も、虫の知らせのように私にも届いた。

 彼は誰に殺されたのか。真面目な彼が殺されるのなら、不真面目でもなく中途半端な私はどうなるのか。結局私にはわからなかった。

 結局、私はその絵を描き続けていた。そうすることしか私はできなかった。白くなびくシャツに、これもまた白く、スラッとしたスカートを履き、薄い肌色のカーテンレースに半身を隠しながらこちらに微笑む、薄い褐色の肌をした黒髪の女性の絵。まだ未完成だが、それは、私にとっての純粋だった。綺麗で尊いものだった。私はまだ、真面目さに殺されるわけにはいかない。そしてだれか、私の不真面目さを認めてくれ・・・・・・。

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