第7話 会いたくない人

 翌朝六時。


 俺は家を出る一時間前に起きる事にしている。直美はその三十分前に起きて、朝食と弁当の支度したくをしてくれている。


 朝のニュースを見ながら二人で朝食を食べ、クソをしてスッキリし、少しまったりしてから家を出るのが俺の毎朝のルーティーンだ。


 直美はどんなに忙しくても、俺が家を出る時は門の外まで出て見送りをしてくれる。


 今朝も同様であった。七時になったところで家を出た。この時間に出れば今の現場には余裕で到着出来る筈だ。


 足代わりは中古で買ったホンダの百二十五㏄のスクーター、リードだ。車は軽自動車のダイハツの白のタントがあるのだが、直美が買い物や病院へ行く時に使うので、大雨が降った時以外はスクーター専門だ。


 ハーフタイプのヘルメットをかぶりながら玄関を出て、車の後ろに置いてあるスクーターを押して道に出て行こうとした。そこへ直美が右手に弁当を持ち、左手でお腹を支えるようにして玄関から出て来た。


「武ちゃん、お弁当」

「おう、サンキュー」俺は弁当を受け取って、スクーターのシートの下のトランクにしまった。

「おはようございます」


 直美がよそ行きの声を出して明るく挨拶をする声が聞こえた。


 見ると、直美が門を出て向かいの家の前で掃除をしている老夫婦のところへ近付いて行っていた。昨日越して来た老夫婦だと思った。白髪頭のお爺さんは下を向いてホウキでゴミを集めていて顔はよく見えなかった。お爺さんの横でちり取りを持って立っているお婆さんは白髪頭のうえに凄くせていて、ベージュのカーデガンを羽織ったその姿は随分疲れているように見えた。


「武ちゃん」直美が手招きをした。


 挨拶としろという事か。俺は門の外までスクーターを押して行き、スタンドを立ててスクーターを止め、挨拶をしに三人の方へと歩いて行った。


「おはようございます。こいつの夫の前島武士です。よろしくお願いします」


 耳が遠いのだろうか? お爺さんはホウキの手を止める事無く下を向いてゴミを集め続けていた。お婆さんはこちらを一瞬チラリと見たような気がしたが直ぐに視線をらされた。


 直美は自分の耳を指して『聞こえなかったみたい』という顔をして微笑んだ。


「おはようございます」直美はお爺さんの肩に手を添えて大きな声を出して言った。


 それでようやくお爺さんは気付き、掃く手を止めてゆっくりと顔を上げてこちらに顔を向けた。


 お爺さんと俺の目がバチッと合った。


”ドグゥン” 俺の心臓が大きく波打った。


”ドクドクドク……” そして鼓動がどんどん早くなるのを感じた。


 そのお爺さんの顔には見覚えがあった。


 どうしてこの男がここにいるんだ?


 間違いであってくれと男を見て浮かんだ名前を打ち消した。


 そうだ、似ているが他人のそら似に違いない。だって俺の知っているあの男はこんな白髪頭のしょぼくれた老人ではない。


 そう自分に言い聞かせても男の姿を直視出来ず、向かいの家の門扉の脇にある駐車場に目をらした。昨夜は暗くて見えなかったが、駐車している車のナンバープレートが山梨ナンバーである事に気が付いた。


「どうしたの?」

 呆然としている俺を見て直美が言った。

「ねえ、武ちゃん」


 その言葉に我に返った。


「挨拶挨拶」


 直美にうながされて仕方なく挨拶をする事にした。


「どうも、前島です」声がまったく出ていなかった。

「福丸です」しょぼくれた老人とは思えないお腹の底から出たハッキリした言葉だった。


 福丸だと……、他人のそら似などではなかった。目の前にいるこの白髪頭のしょぼくれた老人は、俺の知っているあの福丸だ。この男の名前が佐藤や鈴木だったら否定のしようもあったが、福丸という名前はどこにでもある名前ではないのだ。ましてや記憶の中にあるあの男と酷似こくじしている男が同じ名前などという事はあり得ない。


 どうしてこの男がここにいるのだ? どうやって俺の居場所を見つけたのだ? 何をしに俺の目の前に現れたのだ?


 決まっている。俺に復讐する為に現れたのだ。


 瞬時にたくさんの疑問、疑心、そして底知れない恐怖が頭に浮かんだ。


「ご主人、下のお名前は?」福丸が分かりきった事を白々しく聞いて来た。


 そんな事はわざわざ聞かなくても知っている筈だ。中学二年生の一年間、毎日教壇の上から呼んでいた名前ではないか。


 俺をいたぶって楽しんでいるのか? 俺が答えずにいるので直美が代わりに答えた。


「武士です。ぶしって書いて武士」

「武士……」福丸はそうつぶやくと、マジマジと俺の顔を覗き込んで来た。


 俺は逃げ出したい気持ちでいっぱいになったが、気持ちとは裏腹に体が金縛りにあったかのように動かす事が出来なかった。


 福丸のまゆが上がった。


「もしかして君は堂本武士君じゃないのか?」


 えっ!


 まさか今まで気付いていなかったというのか? そんな筈があるわけない。


「えー、どうして知っているんですか!?」

 直美は俺の気持ちなど知りもしないで能天気な驚きの声を上げた。

「そうです、堂本堂本。でも今は私と結婚して私の苗字の前島になっているんです」

 直美はそう言うと、俺の腕に自分の腕をからませてき来た。

「この人婿入りしてくれたんです。男の人って名前変えるのに抵抗あるじゃないですか。でもこの人は私の事を愛しているから、名前変えるのを受け入れてくれたんです。ねえー」


 直美は恥ずかしげもなくノロケたが、俺はたしなめる事も愛想笑いも出来なかった。


 そんな俺たちの事を、福丸とその妻はニコリともしないで見ていた。その空気を察して、直美は絡めた腕を外した。


「えー、どうして福丸さんが武ちゃんの前の苗字を知っているんですか? 二人、もしかして知り合いなんですか?」直美は俺が一番聞かれたくない質問をして来た。


 俺はどんな答えをすればこの場を乗り切る事が出来るのだろうか。頭をフル回転させた。


「なんだ覚えていないのか。中学二年の時の担任だった福丸だ」福丸は俺に一歩近付いて来て言った。


 勿論覚えている。忘れたくても忘れられない因縁が俺たちの間にはあるのだから。が、しかし、今どう答えるのが正解なんだ? ……直美が俺を見ている……、何か言わなければ……。


「ああ、先生……、お久し振りです……」苦し紛れに今初めて気付いた振りをしたが、思いっ切りたどたどしくなってしまった。

「うん、懐かしいな、いつ振りだ?」


 今度は何と答えればいい? ……卒業式以来と答えればいいのか。あの事件を起こす前も起こした後も福丸とは会っていない。未成年の起こした犯罪だったので裁判は非公開だったのだ。


「卒……、卒業式以来です」正直に答えた。しかし声は消え入りそうなほど小さかった。

「そうか、卒業式以来か。どうしているかずっと気になっていたんだぞ」

「はあ……」吐息とも取れる返事しか出来なかった。


 もう限界だ。これ以上ここにいたらどうにかなってしまいそうだ。


「あっ、武ちゃん、時間時間」


 俺の思いを察してくれたかのように、直美が助け船を出してくれた。俺はわざとらしく腕時計を見た。


「いけね。すみません先生、仕事に行かないとならないんで」

「いいんだ。仕事に遅れてはいかん、早く行きなさい。なーに、向かいの家に越してきたんだから話はこれからいくらでも出来る」


 そう言った福丸の目は冷淡だった。


 そうだ。今この場を逃げられたからといって、帰ってくれば向かいの家には福丸がいるのだ。しかし、今は兎に角この場を早く立ち去りたかった。


「それじゃ失礼します」早口にそう言うと、スクーターにまたがりエンジンをかけた。

「いってらっしゃい」


 まだ二人の本当の関係に気付いていない直美は、いつもと変わらず手を振って見送ってくれた。


 俺は直美にうなずくと、福丸夫妻には目を向けずにそそくさとスクーターを発車させた。バックミラーを覗くと、三人が並んで見送っているのが確認出来た。ただし、手を振っているのは直美だけで、福丸夫妻がどういう顔をしているのかまでは分からなかった。


 丁字路を右折すると三人の姿が見えなくなり、俺は一先ひとまずホッとして大きく息を一つ吐いた。しかしそれも束の間、直ぐに俺は俺がいなくなった後に、直美と福丸夫妻の間で交わされる会話がどんなものなのかを想像すると気が気でなくなるのだった。


 不安な気持ちを抱えたまま建築現場に到着したので、道中の景色や信号で停止した事など何一つ覚えていなかった。そんな状態で仕事にかかったので、その日の仕事振りは散々な出来になってしまった。普段なら絶対にやらないしくじりをいくつもしては、岩さんにどやされ、新人の高木にも心配される始末だった。


 それでもどうにか仕事に集中して、今朝起こった出来事を忘れようとしたが、無理だった。何度か直美に電話をしようとも思ったが、それすら怖くて出来なかった。


 岩さんと高木は終業時間の十七時になると帰って行った。しかし俺は家に帰るのが怖くて、今日しなくてもいい仕事を無理やり見つけて、投光器の灯りの下で仕事をこなした。


 そして仕事をこなしながら何とか家に帰らないで済む方法はないかと考えた。しかし、いくら考えても身重の妻が待つ家に帰らないわけにはいかなかったし、ましてや建てたばかりの家を売る事を直美に納得させる事は困難だと思った。


 もし納得させられるとするならば真実を告白するしかないのだが、それをすれば夫婦関係は破綻はたんして仕事も奪われるのは目に見えている。だから、それは絶対に出来ない。


 そんな事を悶々もんもんと考えていると、二十時を過ぎた頃に直美から電話がかかってきた。いつまで経っても俺が帰って来ないものだから心配してかけてきたのだ。福丸から何か聞いたか尋ねると『別に』という返事がきたので、俺は一先ず安心して家に帰る事にした。


 家に着く少し手前でスクーターのエンジンを切った。エンジン音を聞かれて福丸に帰宅を知られない為だ。


 スクーターを押して家の前まで来て福丸の家の様子をうかがうと、雨戸が全て閉められていて、玄関先の外灯が点いているだけだった。音をたてないようにスクーターを車の後ろに隠すように止めて家に入った。


 迎え入れてくれた直美は、連絡をしないで遅くなった事に少し文句を言ったが、それ以外はいつもの明るい直美であった。俺が出掛けた後の事を聞きたかったが、下手へたに聞くとやぶへびになりかねないので聞かずにおいた。


 その夜は疲れたからといって風呂に入って直ぐベットに潜り込んだ。直美はそんな俺の様子を不審がる事もなく、三十分後には隣で寝息をたて始めていた。


 俺は目をつむって眠ろうと努力すればするほど、忘れかけていたあのまわしい出来事が鮮明に頭によみがえって来た。あの十四年前の秋の出来事が……。


 

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