バリ屋のいない連絡橋

神崎 ひなた

1.

 朝霧が立ち込める中、私はそっと家を出た。ここのところ、早朝に散歩するのが日課になっている。それというのも、旧連絡橋を縄張りにするバリ屋のせいだった。いつしか、私は彼女の顔を見ることを、何よりの楽しみにしていた。そのためだけに、朝、きちんと顔を洗う。歯を磨く。服装を整える。もちろん正装だ。そのようにして身だしなみを整えないことには、彼女の前に立つのは失礼なように思えた。生半可な気持ちを呑みこんでしまうほど強い職業意識が、彼女にはあった。

 自宅からまっすぐ歩いて、十分ほどでオケアノス大河にぶつかる。川幅1.5キロメートルを誇る大河だ。旧王立図書館の書物によれば、神々の流した涙によってつくられた川だとされている。なにゆえ神は涙を流したのか? それは一説によると、人の愚かさに由来するという。私は、その風説を聞いた時点でそれ以上追及するのをやめた。神話など、鼻で笑うだけの価値しかない。神話を生み出すのもまた人間なのだ。神話とは十割のエゴで出来ている。これは、絶対に間違い様のない真理だ。

 そんなことを考えているうちに、旧連絡橋に着いた。今日の川はごうごうと音を立てていた。夜半に振った雨が影響しているのだった。平生と違って、川の色が茶色。上流の砂岩を砕いているから、そうなるのだ。

 果たして、彼女は今日もそこにいた。『そこ』とは、川と大地を隔てるちょうど境の辺りである。川でもなく橋でもない、そこに彼女の常駐キャンプがあった。バリ屋の女性は、眼向け眼を擦って、テントから這いずりだしてきた。「おはようございます」と、私の顔を見るなり、へらっと彼女は笑った。


「今日も早いんですね」


「歳をとると、ぐっすり眠るのが下手になる」


「運動不足じゃないですか? 自立神経の乱れは、睡眠に大きな影響を及ぼします」


 したり顔で、そしてどうでも良さそうにいった。「さて」と彼女が息を吐いた。私にとっても、彼女にとっても、ここから先が本番だった。


「今朝も、いつもの散歩路ですか? 連絡橋を一往復で、50ベニスになりますが」


「よろしく」


「委細承知でございます」


 あー、と可愛らしい欠伸を吐いた後、にっこりと微笑んだ彼女は。両手を広げ、ぶつぶつと呪文を唱え始めた。ゆっくりと私の傍に近づき、その距離が三十センチになる頃には、朝霧も、露も、そして登り始めた太陽の光も遮断する、魔法の層が私を覆っていた。


「さぁ、今日はなんの話を聴かせてくれますか?」


 楽しそうなバリ屋をみながら、さてどうしたものかと頭を巡らせた。できるだけ面白く、かつこれから生きる若者のためになるような物語が、果たしてまだ在庫のあっただろうか。


 そういう風に頭の体操をすることが、私にとって一番の生き甲斐だった。

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