人類最後の喫煙者
井澤文明
第1話 喫煙者の小峰
『喫煙者処置法』が立案され、実行されてからおよそ二十年の月日が経った。
世界に存在する喫煙者を絶滅に追い込むこの処置法は、かなりの効力を持っていたようだ。立案前はおよそ1880万人も日本国内にいた喫煙者も、現在は片手で数えられるほどしか残っていない。その残り少ない喫煙者の一人に、
今日もこっそり、秘密裏にアフリカのどこかで製造されたらしい煙草を小峰は売人から買うと、早速新宿の路地裏で一服する。煙草の先に火を付け、吸い、煙を吐き出すまでの一連の動作が、小峰にとって至福のひと時だった。
処置法がまだ立案される以前に喫煙を始めた小峰は、処置法が執行される前も後も、禁煙に幾度も失敗し、今までズルズルと煙草を吸い続けていた。自分が犯罪行為をしていると知りながらも、それを止めることは不可能だった。
自分はおそらく、最後の一息を吐き出すまでずっと、煙草を吸い続けるのだろうと、小峰は思っていた。
そう夢見てしまうほど、彼は煙草に依存していた。
現在では煙草に依存し、国から隠れるようにして喫煙をする小峰も、昔はきちんと中学校で教師として勤めていた。そこは私立校で、裕福な家庭に生まれた子供ばかりが集められていた。
だが生徒たちは皆、四十代で独身、そしてそこまで豊かな暮らしをしていない小峰を卑下することなく、常に慕っていた。小峰は心のどこかで、この生徒たちに喫煙者であることがバレたとしても、きっと大人には言わず、隠そうとするだろうと期待していた。
だが、彼の教え子の一人───
処置法がそこまで厳しくなかった時であったため、その時の彼はクビになるだけで済んだ。本来であれば、逮捕され、場合によっては処刑されてもおかしくない事件である。
彼がそこまで至らなかったのは、彼自身の教師としての人望があったおかげのだろう。蛇間紅子もまた、小峰を告発はしたものの、彼を慕っていた。彼女の嘘をつけない性格が災いしただけの話なのだ。
だが、過去に小峰が一体どれだけ教師として信頼されていようと、職を失ったことに違いはない訳で、それからというもの、小峰は喫煙者であることを隠し、日雇いで働きながら細々と生活していた。そして今日のこの日まで、なんとか生き延びていたのだ。
今日も、小峰は煙草を吸う。
報知器が設置されておらず、警察の目も届かない新宿の奥にある路地裏は、喫煙者たちにとって天国のような場所だった。
「おお、すげー」
一服をする小峰の横でスマホをいじっていた売人は、感嘆の声を上げる。
「どうした?」
「いや、なんでもねぇ」
売人はニヤニヤと黄ばんだ前歯を見せ、嫌らしい笑みを浮かべながら、小峰の顔をしげしげと見る。
「絶対になんかあるだろ」
「だから、なんでもねぇって。じゃあな、おっさん」
売人は結局何があったのか明かすことなく、脱兎のごとくその場を去った。
「なんだってんだ……。あいつ、絶対何か隠してるぞ」
だが、その隠し事がなんなのか分かるはずもなく、小峰はまた一本、煙草に火を付け、吸った。煙草の煙がゆらゆらと上へ上へと昇っていく。
───この時間が、永遠に続けばいいのに。
そんな、叶うはずもない願いを小峰は抱く。
その時、売人が去って行った路地から、バタバタと大勢の足音が響いた。その足音の多さと、揃った音から、小峰はすぐにそれが警察のものであると理解した。だが小峰が立っていた場所から逃げれる路地はどれも狭く、中年太太りが進行した小峰では、出っ張った腹が邪魔をして、通り抜けることはできない。
あの売人が、警察へ通報したのだ。
小峰は先ほどまで隣に立っていた売人の嫌らしい笑みを思い出しながら、大きく舌打ちをする。きっとどこかのネット記事に、喫煙者を警察へ差し出せば多額の報酬を得ることができる、と書かれていたのだろう。
小峰はこの窮地を脱する方法を必死に探す。
だが結局、狭い路地ばかりの場所であるせいで、脱出路を見つけることはできず、袋の鼠となった小峰は麻酔銃で眠らされる。彼は最後の一本を吸い終わることを待たずに、深い眠りについた。
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