前夜

古新野 ま~ち

第1話

 黒い小粒な影の見つめていると、健一は、それが蝿であることに気が付いた。

 こいつはどこに潜んでいたのかと、冬になるまで生き延びたそのしぶとさに驚いたものの、高峰、増田、福盛、佐賀辺、が面を突き合わせている雄達の黒々とした熱気にあてられては蝿も時期を間違えて這い出してきたのだと納得した。

 灯油ストーブの紅い匂いのする熱風で体表を温め、各々が持ち寄った酒ではらわたを燃やすが、こんこと降りやまぬ雪道を歩いてきた彼ら自身は冷たいままだった。健一もそうだ。

 「俺たちに哲学は無いはずだ」

 そう言ったのは高峰であった。

 「俺たちの中に、何か譲れないものがあるやつは、もう帰ってくれ」

 「それは、この問答を投了したと見なしていいのか」

 福盛の今にもゲロをしそうな青ざめた顔が必死の力で微笑もうとしている。歪んでいる笑顔をみて健一は立ち上がり、コップ一杯の台所の水を与えた。生臭くて飲めるかと文句を言うから、コップのふちを唇に押し当てた。自分の乾燥して荒れた唇とは対照的に血色のいいそれはガラス越しでも分かる弾力の良さだ。

 「浄水器くらいつけとけよ。臭くて飲めたものじゃない」

 「実家暮らしと一緒にすんなや」

 自分の部屋が貶されると、健一は、衝動的に福盛の頭をブッ叩いてやろうかという気になった。本棚にはちょうど京極夏彦の単行本が置いていた。自分の握りこぶしくらいはありそうな背表紙だ。

 「今貧乏でも、あと何年かすれば生活も安定するだろ」

流し込まれた水を、口の端から溢して福盛が言った。高峰はそれを無視した。

 「そもそも三万のアパートに、こんだけの人数入れてやってるのすらありがたく思えよ」

 「話はすんだのか」高峰が苛立ちを隠さない刺々しい声で言った。彼の前を蝿がとんだ。それを手首ではなく肩を振り回して蝿を追い払った。見えなくなると舌打ちをした。 

 「なら帰らせてほしい。お前の気分は理解できるけど」増田は健一の顔を見た。十か二十秒は沈黙が続いた。沈黙にしびれを切らした高峰は掌の中のグラスの酒を一気に飲み干した。氷を噛み砕いた。

 「けど、なんだ」

 「理解できるだけだ。お前の、なんというか、ルサンチマンみたいなものの発散につき合うつもりはない」

 「違う。確かに俺個人の復讐ではあるかもしれないが、これは」そこで高峰は言葉を詰まらせた。

 「クリスマスは人に愛をつたえる日って知らないのか」福盛はため息をついた。

 「邪教だ」

 「お前からすればな」

 高峰は舌打ちをした。福盛は鼻で笑った。

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