青を抱いて飛べ

野凪 爽

prologue.血濡れのメグミ

0-1

 


 散り始めた桜の花びらを竹箒で掃いて、春の終わりを年寄りみたいにしみじみと感じていた。

「先生おはよ」

 慌ただしく駆けていく生徒たちの背中が過ぎ去っては校舎の中へ消えていく。

「まぁ先生ではないけどな」

 最近、謙遜とかそういったことを抜きで「先生」と呼ばれているのが不思議に思えてくる。それ程に俺がしている業務と肩書きは一致していない。


 ちなみに俺は先生と呼ばれる職業にはついているが、別に教師というわけじゃない。先生と呼ばれるのは俺が臨床心理士で、学校でスクールカウンセラーをやっているからだ。

 しかし、スクールカウンセラーは心理士でも臨床の場にはかかわらないので患者を多く抱えることもないし、悩みごとの大半は別に深刻なものでもない。

 スクールカウンセラーとしている時間はほとんどが暇だ。まぁ、もっと親身に入れ込めば、大変なのだろうけど。

 そんな自己犠牲は俺の片隅にすらない。

「必要以上のこと以外は頑張らない」をモットーとして生きている俺にとってのカウンセラーの仕事といえば、「生徒の悩みを聞いているふりをする」ということに一貫する。ひどいと思うかもしれないが、悩みというものの八割はこれで解決する。

 相談者というのは大概、解決を望んでいるわけじゃなくて、同情や共感を得たいだけだ。だから俺は出来るだけ相手に不快感を与えないように相槌を打つことがこの仕事の本質だと思っている。あまりに酷ければ知り合いの精神科を紹介すればいいわけだし。そう決めたはずなのに……

 達成できていない。というのが現状だ。


 俺は今、馬車馬のごとく働かされている。

 卒業する前の学生には是非言っておきたい。「どんな社会にも理不尽は在るんだよ」と。


 ある時、とりわけ面倒な相談事をやっと片づけ、一息つこうとグラウンド脇の木陰にあるベンチに座った。

 そこで俺は何をするわけでもなく、木々のさざめきに眠りを誘われながら葉の揺らめきを眺めていた。

 そんな俺の行動を勘違いした職員の一人が上に告げ口をした。どうやら職員の一人は俺の唯一のリフレッシュタイムを職務怠慢と履き違えたらしい。

 告げ口のせいで周りの風当たりが一気に強くなり、次第に俺は追い込まれていった。

 そしてある日、職員室に呼び出され、断れない雰囲気の中でカウンセラー以外の雑事をすることに同意させられた。

 それからは学校周りの植木の手入れをはじめとして、花壇の水やりや電球の交換、簡単な備品の修理など次々と頼まれるようになった。

 きっと先生と呼ばれる俺を先生たらしめているものは、毎日羽織るくたびれたこの白衣ぐらいなんだろう。

 さらにカウンセラー室で受ける相談もここ最近ひどくなってきている。

 以前はいじめられっ子の相談に乗ってあげるなど、カウンセラーらしいことをしていたはずなのに、いつの間にかスクールカウンセラーも便利屋扱いされていた。


 ここ最近だと、猫を失ったショックで立ち直れないという女子生徒の相談に乗った時がそうだった。

 話す声のトーンや、表情を察するに俺は死んでしまった猫に対しての心のケアが欲しいのだと思ったが、聞いていくうちに猫は死んでなどいないことがわかり、迷子になってしまったというだけのことだった。それは興信所か交番に言えよ、と言ってやりたかったが、泣きつかれてしまい、仕方なく手伝ったことがある。

 でもその件は後でお礼ということをかねてその子とデートできたからまぁ、良しとして……とにかく、最近の相談の多くはカウンセラーとして範疇外なことばかりだ。




 今日最後の終業チャイムが鳴り、カウンセラー室の窓から見えるグラウンドを眺めていると、野球部の生徒たちが集まっているのが見えた。

 野球部はキャプテンの号令とともに整列し、グラウンドの外周をランニングし始めた。通るたびに彼らの掛け声がカウンセラー室に響く。先頭の走者がダッシュでグラウンドを回って最後尾に着く。するとさっきまで先頭だった者が全速力で走り最後尾へ。それは繰り返し行われていく。

 ウォームアップのためのランニングであるのに初めからきつすぎだろ。

 次第に部員達の顎は上がり、息苦しそうに走っている彼らを見ているとこっちまで息が詰まる。

 西へ沈もうとしている陽光はカウンセラー室の中を温かく照らす。

 まさに小春日和であり、昼寝日和だ。このことに彼らは気づいて―――

 ないか。 

 こんな日は窓際でうたた寝するのがベストだというのに、どうしてそんなにも苦しそうに頑張るのか。俺には理解し難い。

 隠してあるロッキングチェアをいつも通り窓際に持っていき、腰を掛けて背もたれに体重を預ける。周期的な揺れが安眠へと誘い、その揺れに抗うことなく俺は目を閉じ、ポケットからアイマスクを取り出す。


「冴島聡先生。冴島聡先生。職員室までお願いします」


 鈴のように柔らかな声でそう告げられ、俺は咄嗟に母を連想する。だけど聞こえなかったふりをしよう。

 耳にかけたままだったアイマスクのゴムを引っ張り、瞼に貼り付けた。目を完全に覆い、手招きする暗闇に導かれていると再び校内放送が流れた。

「冴島先生、至急職員室へ。繰り返します。冴島先生、至急職員室へ」

 声音が明らかに変わる。数瞬前とは違い鈴は鐘の音になっていた。まるで警鐘のようだ。

 それに気のせいだと思いたいが、その鐘は苛立ちにより激しく揺れてけたたましく音を撒き散らしているように感じる。

「行けばいいんでしょ! 今行きますって」

「冴島くん、いるんでしょ。早く職員室に来て! 」

 追い打ちのようにまた放送が入り「携帯電話みたいに校内放送を私的に利用するのはどうなの」なんて文句を溢しながら白衣を肩にかけ、カウンセラー室を飛び出していった。


「お待ちどう様でーす」

 職員室の扉を開け、そう告げると、声の主がきっと俺を睨む。

 怒っているとはいえ、整った顔立ちはさほど崩れず、黙っていればやっぱり美人だな。なんてことを思ったが、すぐにそんなことを思う余裕がなくなった。

 普段はそれなりに雑多としている空気が何故か今は張り詰めている。俺を呼び出した彼女の事務机のあたりに人だかりができている。ぴんと限界まで伸ばした緊張は俺の態度次第で弾けて切れてしまいそうだ。

「あのね……」

 分厚い人壁に押し出され、彼女が俯きながら此方へ向かってくる。

 歩くたびに踊るように弾む毛先は彼女の軽やかさを表現すのには良いチャームポイントだったのに、今日はそれがなく、髪は萎びて見える。

「実はお願いがあってですね……」

 俯く彼女の旋毛を見ていると、写真を持った手がすっと此方へ伸びてくる。

 俺はそれを手にとり、裏返す。

 一枚の写真に収まっていたのはある女子生徒の姿だった。

 元の色を少しも感じられないほど完璧に染め上げられた金髪が良く似合っている。大概の日本人は金髪にすると髪の色が奇抜過ぎて、素朴な日本人の顔立ちにミスマッチしがちだが、この子の場合は違う。

 ハーフか?

 どうかはわからないがまるでこの色が地毛だったかのようだ。モデルかと疑うほど整った顔立ちと体型。学生の年代をターゲットとしたアパレルショップの店員をしていたら似合いそうだ。だけどこの女子生徒にはひとつ難点があった。

 目つきが悪い。

 その一点のみが写真に映る女子生徒の魅力を根こそぎ奪っている。その点を踏まえてこの女子生徒を表すならば、

 ポップな獄卒。

 といった感じだろう。

「この子って……えーっと、確か、なんとか恵ちゃん? 」

 印象を整理し終え、確認のためにそう問いかけた。

 彼女も含め、後ろで控える老若男女の教師が息をのんだ。たった一人の女子生徒に大人達が雁首揃え、頭を抱える。耳を塞ぎその名を聞かないようにしている者もいる。ひどい者は子供のように「あー」といいながら耳を何度も突いている。

 その反応は滑稽で噴きだしそうになるのを俺は必死にこらえた。ただの女子生徒がもはや、名前を呼んではいけないあの人扱いとは。


「―――血濡れのメグミ」


 彼女の後ろで控えていた教師の一人がそう言った。


―――血濡れのメグミ。


 少しやんちゃな見た目のただの女子生徒が怪談話に出てきそうな物騒な二つ名を付けられるのにはもちろん理由があった。

 理由を語るには一年前まで時間を遡ることになる。



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