めぐるおもい

 体をぶるぶると揺らせば、ねばつく青紫の塊りが飛散する。

 まるで青紫色のみぞれだ。

 周囲にねばねばを撒き散らしながら、ユハは地面に降り立った。

 足元は水たまりができていたが、ナメクジだったころのようにぶにぶにとした個体とも液体ともつかない物体ではなくなっていた。恐らくユハがナメクジの腹を突き破って飛び出したことで、元々の形を維持できなくなったのだろう。

 ユハはローラムを離すと、周囲を見回した。

 すぐさま密集していた魔物の群れがユハたちに襲い掛かってくる。爪や牙で引っ掻かれ、奇妙で不気味な声が耳のすぐ脇をすり抜ける。からかうように、嘲笑うようにちょっかいを出しながら、時折本気で殺しにかかってくるので気が抜けない。全身で全力でそれらをかわし、反撃し、抵抗する。

 ユハと同じように、魔物の群れの中で、暴れている者がいた。

 巨大な拳を振り回す者、剣で斬りつける者、噛み千切ったり投げ飛ばしたりしている者。

 臥朋がほう、カシー、玖那くな の三人だ。

 その向こうには巨大な柱のように赤々と火が燃えており、ちょこまかと背の低い影が忙しなく行き交っては、火を絶やすまいとしている。

 アララギはすでにいなくなっていた。

 巨鳥のままでは、絶好の標的だ。

 ユハは人の姿に戻ろうとして、ぎょっとした。ローラムが魔物の間を縫うように走っていく。

 なぜ。

 慌てて後を追う。飛んでくる魔物が実体を持つのであれば蹴り飛ばし、霞であれば翼で吹き飛ばす。突いたり噛んだりするのはお互い様だ。夢中でローラムの後を追ううちに、ユハは勢い余って何かに体を強かに打ち付けた。

 額と、両腕が――両翼の付け根が、痛い。

 ふらふらと数歩下がり、よく見ればそれは建物の入り口だった。

 人間からすれば人がゆうに二人は横に並んでまだあまりある大きさだが、今のユハには小さすぎる。ユハは鳥から人の姿に変化すると、ひりひりと痛む額を摩りながら中に入った。

 建物の中は、さすが貴族の屋敷といった風情だった。

 床に落ちて壊れた花瓶や置物、壁にきちんとかけられていただろう絵画が散乱している。ひん曲がってはいるが未だ壁にへばりついているのは、海をモチーフにした絵画だ。外はすっかり暗いのに明かりが灯っていないせいで、余計に寒々しく、不気味に見える。

 何とはなしに見ながら横を通り抜ける。絵画の海に佇みこちらへ微笑みかけている人物が、ユハが通るのに合わせ、ぎょろり、と目玉を動かした。

「ひっ」

 驚き、思わず短い悲鳴を上げる。

 魔物の仕業かと周囲を見るが、建物の中には魔物は一匹たりとも侵入してくる気配がない。皆、入り口付近をうろつき、しばらくすると諦めたようにどこかへ飛んでいく。恐らく、臥朋やカシーたちのところへちょっかいを出しに行ったのだろう。

 助けに入ってやるべきだっただろうか、とふと苦い思いが湧き上がる。

 だが彼らは強い。

 あんな魔物なんかに負けるような見せかけの腕っぷしのやつらではない。大丈夫だと自分に言い聞かせ、絵画とは目を合わせないよう、廊下の端にぴたりと背を付け、じりじりと進む。

 絵画は、ユハが進むに合わせぎょろりと視線を動かすだけで、飛び出してはこなかった。

 ほっと息を吐き、さてローラムは、と思ったところで、分かれ道があった。

 直進すれば奥には階段があり、その手前には右に曲がる廊下がある。曲がった先には左右に扉があり、その先にもさらに二つ扉がある。

「どこ行ったんだよ、ローラムぅ……」

 げんなりしながら、ユハは目を瞑り、息を止めた。

 神経を研ぎ澄ます。

 ――ローラムは……どこだ。

 数秒後、ローラムの気配を察知し、ユハは廊下を右に曲がった。

 ローラムが火蜜かみつを飲んでいないせいか、いつもよりも気配が濃く、しっかりとしている。

 一度掴んでしまえば、目を開けてもその気配を追えそうだ。

 最大の難点は、息をしてしまうと全てクリアになってしまうことだ。

 ユハは息を止めたまま、足早にローラムの気配を追って扉を開けた。

 煌々と灯る明かりに、暗闇に慣れていた目が眩む。

 眩しい光の中に求めていた姿を見つけ、ユハは止めていた呼吸を再開し、ぜぇぜぇ、と荒く呼吸を繰り返した。

 ローラムがいたのは、殺風景な部屋だった。

 客間だろうか。

 タンスや机、椅子などの調度品はなく、絨毯すらない。何一つない部屋なのにそこが客間だと思ったのは、むしろ何もないからだ。

 真っ白で何もない部屋には、ローラムのほかに、アララギがいた。

 自分の鎖骨にぽっかりと開いた蛇の口に手を突っ込み、ぐちゃぐちゃとかき回し、ずるりと引き抜いた手で壁に触れる。

 白い漆喰の壁に真っ赤な手形が付く。

 アララギの手は骨を失くしてしまったかのように、滑らかに壁の上を滑った。

 筆となった手は、赤い色が掠れると、新たに色を追加され、壁への色付けを再開する。

「アララギ」

 アララギはちらりとユハを一瞥しただけで、すぐに作業に戻ってしまう。

 没頭している。

 その表情はわからない。笑顔でもなく、悲し気でもない。怒っているようにも見えず、楽しそうな感じもしない。

 ただ、作業をしている。

 ローラムがつかつかと近づき、ユハが止める間もなくアララギの手を取って止めさせる。

「それ以上、汚すな」

 アララギの無数の目が一斉にローラムを睨み付ける。

 アララギは草の目でローラムを睨み付けながら、自分の本来の目は壁を見つめ、ローラムの手を振りほどくと作業を続ける。

 ぞわ、とローラムの周囲の空気が微かにざわつく。

「やめろ。それ以上エルトン様の部屋を穢すな!」

 空気がびりびりと震え、突風がアララギを打つ。

 がたがたと煩く揺れた窓は耐えきれずに全て割れ、破片が飛び散る。己の激昂に周りの様子が一変したことにも気づかず、ローラムはアララギに詰め寄った。

「なぜそんなことばかりをする! 前にもこの屋敷は壁に落書きをされていた。何の不満があって! 恨みがあるなら僕だけを狙えばいいだろう。僕だけに的を絞ればいい。ほかの人は、エルトン様は関係ないだろ……う」

 べたり。

 アララギがローラムの頬に触れ、赤い色を塗りつけた。

 自分の血を。

 べたり。

 べたり、べたり。

 真っ赤になったローラムの頬を撫で、呆然とするローラムに構わず、アララギはにこりと微笑み、

 

 ――噛みついた。

 

「いっっっ!」

 ローラムが痛みに暴れる。

 我に返ったユハも慌ててアララギを引き離しにかかるが、見栄も外聞もかなぐり捨てたアララギはしぶとく、なかなか離れない。無理やりアララギの口の中に指を差し入れ、力の限り引く。

 ユハの親指以外の四本の指を犠牲にし、ようやくアララギは口を離した。

 ぺろりと唇を舐めたアララギは、今までのか弱く儚い印象とはまるで違う。

 艶めかしく、妖しく、不気味で、虚ろで、猛々しさの中に、廃れ行くようなある種の美しさがあった。

 アララギが壁に唾をぷっと吐きかける。唾に混じった赤いものは、先ほど噛みついたときに口に入ったローラムの血だ。

「お前はずっとエルトンエルトン言っていればいい。わたしは深幽境しんゆうきょうに戻る。あそここそわたしの居場所だ。今度こそ邪魔はさせない。わたしこそが深王しんおう! わたしこそが幽鬼に、全てに愛されるべき存在! 深王はわたしだ!」

 ばしん、とアララギが壁を打つと同時に、部屋全体が揺れ始める。

 アララギはただ壁に血を塗りたくっていたわけではなく、二面を使い、血で花を描いていたのだ。

 下向きの、ミカガリの花。

 深幽境を支え、深幽境へと導く幽鬼の花。

 ローラムが頬からぼたぼたと垂れる血を拭い、押さえながら、もう一方の手でアララギの頬を叩いた。

 アララギが驚き反応できないでいるうちに、首を鷲掴みに窓辺へと押しやる。割れてギザギザと尖っている窓の隙間から仰向けにアララギの胸元までを外へ出す。

 アララギの首筋や頬が尖ったガラスに触れ、細い切り傷ができた。

「エルトン様と言って何が悪い! 恩人を思うことの何が! ただ人の気持ちを欲するだけで行動を起こさないことこそ何より悪いと教わった。他人に嘘を吐くことはよくないことだが、己に嘘を吐けば心が枯れると教わった。だから僕はエルトン様を思う気持ちの通りに動く。僕を思ってくれる人のために動きたいと思う。きみのほうが幽鬼の王にふさわしいならきみがやればいい。けれど王の役割をこなせるのは僕で、その仕事をしろと頼まれた。断ったのにしつこく何度もやってきて、期待をされたのは僕だ。お役目を譲ったところできみは濫用し悪用し非道の限りを尽くすのなら、譲ってなんかやらない。幽鬼だって見た目がほかと違うだけで生きているんだ。酷いことをされれば悲しいし、たった一秒でも声をかけられればその日一日嫌なことを忘れてしまえるくらい嬉しいことだってきっと僕らと一緒だ。誰かの思いを引きずり、縛られ、報いたいと思うんだ。……幽鬼を、エルトン様を、エルトン様が好きなこの町を酷い目に遭わせておいて、自分は愛されたいだけだなんて、馬鹿なことを言うな。誰が優しくもないやつを気に入ると言うんだ! 自分に嫌なことをするやつのことは一生嫌いなままなんだよ!」

 まくし立てるローラムが最後の言葉を振り絞ると同時に、アララギがため息を吐く。辟易したその顔はまるで、耳に入りはしたものの聞いてはいなかったと言わんばかりだ。

「やかましい。説教なぞ聞きたくない。耳が腐る。わたしが本当に欲しいものを全て持って行ってしまうのはいつもいつもお前なんだ。お前がいなければわたしが後継ぎだった! お前がいなければ私だけが王だ! お前さえいなければ、勇隼はずっとわたしの側にいるはずなのに!」

 ぽろぽろとアララギの瞳から涙が零れ落ちる。

 予想外のアララギの反応に、ローラムの手が緩む。

 その隙を見逃さず、アララギはローラムを突き飛ばすと窓を乗り越え、外へと逃げ出した。

 魔物たちが縦横無尽に飛び交い、夜の闇よりも暗く埋め尽くしている庭へと続く外回廊である。

 アララギが飛び出したことで術者がいなくなった部屋は、一際大きく縦に揺れた後すぐに落ち着き、平常通り不動となった。

「待て!」

 ローラムがアララギを追いかけ、部屋を飛び出す。

 ユハも釣られるようにあとを追う。

 アララギは自分と一緒にいたかったのかと思う。アララギがそんな風に思っていたことを初めて知った。

 いつも素っ気なくて、何かを言えば冷たくあしらわれる。だが機嫌を損ねれば荒れるし、逆に機嫌がいいときはユハをもてあそびにかかる。

 アララギはユハを手のひらでころころと転がし、躍らせ、自分の思い通りに動かして遊びたいのだと思っていた。

 朱璽鬼しゅじき だから傍にいろと言われたときとは違う何かを感じ、ユハは胸の内がざわざわとした。

 アララギが外回廊を駆けていく。深幽境へと道を繋ぐはずが邪魔をされた今、アララギはまた別の方法で深幽境を目指すだろう。

 魔物たちがアララギに気付き、ケタケタくすくすと笑いながら逆走するように外回廊をアララギに向かって飛んでくる。

 アララギがちらりと振り向き、ユハを見た。

「アララギ――!」

 耳をつんざく音が立て続けに響く。ローラムの肩に、アララギの足に羽の付いた短い矢が刺さる。注射筒とも呼ばれるそれを左手で引き抜き、ローラムはその場に投げ捨てた。

 アララギは足に矢が刺さったまま、構わず走り続けている。

「麻酔銃ですかっ」

「平気。追うよ」

 心配で声をかけたユハに気にするなと合図し、ローラムが駆け出す。

 音の出所は、向かいの建物の屋上だ。走りながら確認すれば、平らに近い造りの屋根の上で、そのヘリに片足をかけ、わざとらしく手で庇を作ってこちらを見ている男が見えた。

「あいつ!」

 サヴィアンだ。ライフルを構え直し、真っ直ぐにユハに狙いを定めてくる。

 サヴィアンの隣ではサヴィアンの私兵が魔物たちに向かって散弾銃を連射し始めた。

 銃弾を受けた魔物たちは一様に体がぼろぼろと崩れ、灰となり消えていく。

 人々がサヴィアンを応援し、喝采する音が聞こえてくる。あちこちで、人のものから魔物のものへと悲鳴と声援の主が入れ替わる。

 アララギは自分の元に飛んできた魔物を引きつれ、建物を迂回するように庭へと続く外回廊を走り抜けた。庭先でアララギを待つように、魔物が数匹旋回している。庭に飛び出したアララギがその魔物たちと合流する。ユハたちもあと少しで庭に出るというところで、直後、アララギとローラムがほとんど同時にくずおれた。

「ローラム! アララギ!」

 ユハはローラムに駆け寄り、うつ伏せに倒れた彼の体をごろりと回転させた。仰向けになったローラムはぐったりとして、声をかけても目を開けない。

「麻酔が……?」

 ユハはローラムを静かに地面に寝かせると、その頭の上の地面に三彩羽さんさいばを突き立てた。

 これは警告だ。

 朱璽鬼の話は幽鬼の間では誰もが知る名作のように広く浸透しているが、魔物の間では歯牙にもかけられていないかもしれない。それならそれで別にいい。三彩羽の意味が分からずとも、彼に手を出した者には制裁を与えるだけだ。

 ユハはローラムからやっとの思いで視線を外すと、一直線にサヴィアンに向かって駆け出した。

 

 ――あいつが、ローラムを撃った。

 

 憎い。

 許せない。

 ……許さない!


 どろどろとした感情がユハの中で渦を巻く。

 ローラムはまだ完全に覚醒してはいなかった。彼が完全に自分の力をコントロールできるようになっていれば、風を操る深王の血が目覚めていれば、銃弾なんて足元にも及ばないのに。

 そんな状態の彼に人が危害を加えるとは、予想だにしなかった。

 すっかり忘れていた。

 人の間では、ローラムだって魔物の一味となっているのだったと、今更ながら思い出す。

 そんなことはないと知っているから、近くにいて彼の行動を見ていたからこそ、ほかの者がローラムに対して抱いている感情に思い至らなかった。

 とんだ失態だ。

 サヴィアンの持つ銃口が、駆け出したユハに合わせて調整される。

 その腕に、小柄な人影が飛びついた。サヴィアンからライフルを奪おうともつれ合う。

 隙とは、まさにこういうときのことを言うのだろう。

 ユハは巨鳥となり、飛躍的に向上した脚力でもって地を蹴った。巨鳥の足でなら、人間の建物の二階分など楽に跳び上がることができる。軽やかにエルトンの屋敷の柵も植木も飛び越え、サヴィアンのいる建物の外壁に爪を立てる。

 とっかかりは、一瞬、爪の先ほどあればいい。

 再び跳躍し、ユハは三階部分に相当する建物の屋根に飛び乗った。サヴィアンが拳銃を奪い合っていた人物を突き飛ばし、目の前に現れた巨鳥に発砲する。きちんと狙わなくとも、この巨体なら体のどこかしらには命中するだろうとでも思ったのか。

 ――舐めるなよ。

 アララギとは違い、サヴィアンには情も何もない。

 いや、恨みなら吐いて捨てるほどある。

 サヴィアンはローラムの片目を奪っておきながら、さらに危害を加えた。二度も手を上げたやつに、容赦も情けもかけてはやらない。

 ユハは瞬時に巨鳥から人の姿へと変化したが、一瞬間に合わず、変化途中の腕に弾があたる。ローラムとアララギの分で使い果たしてしまったのか、それとも近付いてきたユハには即効性を求めたのか、麻酔ではなく実弾だ。被弾した左側は上手く人の腕に戻すことができず、ユハの腕は二の腕から先は鳥の翼のままというなんとも中途半端な仕上がりになってしまった。

 サヴィアンの私兵が「バケモンが!」と叫び、サヴィアンを置いてさっさと場所を移動する。主を置いて真っ先に逃げるなどあるまじき行為だが、二人の間にあったのはそれだけの信頼関係だったのだろう。

 そのバケモンの恨みは恐ろしいのだと、身をもって思い知らせてやる。

 ユハは息を止め、左の翼を振った。空気を下から掬い上げ投げつけるように動かす。

 翼によって巻き上げられた空気は風となり、サヴィアンに襲いかかる。風を自在に操るのは深王のほうが能力は高いが、朱璽鬼であるユハにもできないことはない。

 サヴィアンが風圧に踏ん張っているところを、ユハは一拍だけ呼吸をすると、再び息を止め、今度は力任せにサヴィアンの腕を捻り上げようと右手を伸ばす。サヴィアンが避けながら発砲し、弾はユハの左の鎖骨下にあたった。

 だらり、とユハの左手が下がる。

「……」

 上がらなくなった肩に、ユハはすぐに左手を使うことを諦めた。

 朱璽鬼の特技は何も、一つではない。

 器用貧乏と揶揄されることすらあるのだ。使い勝手は悪いが、できることはほかの者よりもあると自負している。

 ユハはだらりと下がったままの左手を、くるりと体を回転させることで無理やり動かした。遠心力と風の力を受けた翼はふわりと浮き、空気を乱雑にかき回す。

 サヴィアンが風に抗うために足に力を入れる。

 ユハは大きく息を吸い、体の奥から息を吐き出す。

 肺から送られ口を通って外へ出る間に空気は熱を含み、さらにさらにと吐き出す息に温度を高められていく。

 サヴィアンに向かうころには空気は熱風となり、ユハが放った三彩羽とぶつかり合い、発火する。

 炎を吹き付けられ、サヴィアンは舌打ちをすると、身を翻した。その足にライフルを奪い合っていた人物がしがみ付き、サヴィアンの逃亡を妨害する。サヴィアンは仰向けになり、自分にしがみ付く人物の顔を蹴り飛ばした。足蹴にされてもなお食い下がる相手に、サヴィアンは銃床で肩を打つ。そうしてやっと生まれた隙をつき、サヴィアンは足を引き戻した。

 下の階のバルコニーから屋根へとかかっていた梯子を伝って二階へ降り、サヴィアンは窓からするりと中へ入っていく。屋内へ入れば炎から逃げられると思っているのか。

 ユハはサヴィアンを追うために炎を吹くのをやめ、巨鳥に変化しようとした。

「待ってください!」

 サヴィアンに突き飛ばされた人物だ。シャノンはよろよろと起き上がり、ユハを見る。炎に煽られて赤い顔をしている。

「文句なら聞かない。好きに泣け。待ってやらない」

 シャノンはユハの背後を示した。

「い、いえ。魔物たちが!」

 アララギが倒れたことで抑止力を失った魔物たちが、次々に庭から飛び出し、町中に散らばっていく。今まで庭だけに留まっていたことのほうが不思議なくらいだったのだ。

「だからなんだ?」

 町へと魔物が移動したというのなら、ローラムへの危険が少なくなったということだ。もともと町の治安や維持や救済などユハにはどうでもいいことだ。ローラムがエルトンを助けたいと言ったから彼にくっついてここまで行動してきただけのこと。成り行きで手を貸したりしていたが、そもそもローラムが巻き込まれていなければユハは放置していた案件だ。

 日頃、この町に魔物はおろか幽鬼も滅多に現れない。

 それはこの町の地下に深幽境があり、深王がいたからであって、初代深王がこの地の領主と交わした条約と契約に則っていただけで、聖なる加護があったわけでもなんでもない。言うなれば深王の、幽鬼の圧力という加護によって好んで近づく魔物がいなかっただけだ。仮にもその深王が手引きしたのだから、抵抗なく魔物は好き勝手に出入りできる。

 その恩恵をもたらすものの存在を忘れ、自分たちこそ選ばれた土地の民のような顔をして優越感に浸り慢心した結果、魔物に対抗する手段を何一つ持たなかったのは、人間側の落ち度だ。自業自得。

 今までだって散々ローラムを苦しめてきたやつらに、ユハが何かをしてやる義理も、義務も、思いやりも興味もない。

 魔物たちがまばらになったことで、庭が広く見渡せるようになった。そこにカシー、臥朋、玖那の三人がいる。三人はあちこち傷だらけで草の目がところどころに生えていたが、しっかりと両足で立っている。まだ動けるだろう。

 ローラムのことは彼らに任せ、ユハは二階のバルコニーに飛び移り、くちばしで突いて窓を割る。カシーならすぐに異変に気付き、ローラムの元に走るだろう。

 割れた窓の音にはっとしたシャノンが叫ぶ。

「だから待ってください! サヴィアンは魔物を倒す薬を持っています! ローラム様たちに打ち込んだのは火蜜かみつ という薬です!」

 ぴた、とユハは動きを止めた。窓をさらに割ろうとしていたくちばしを引っ込め、人の姿になると梯子を伝って再び屋根に戻った。

「先に言え!」

 怒鳴りつけながら、シャノンを飛び越える。走る勢いそのままにローラムたちのいる庭に面する辺に向かい、躊躇なく飛び降りた。

 空中で巨鳥となり、羽ばたいて少しでもローラムの近くへ降りられるようにする。不格好だがなんとか着地し、邪魔になる左の翼を押さえつけてすぐさま走り出す。

 カシーたちに囲まれぐったりとしているローラムは、先ほどよりも青い顔をしている。ユハが火蜜だと告げると、入れ違いにカシーが水を求めてマコーレーの屋敷の中へと走った。

「ローラム!」

 約束をしたのだ。死ぬのは今じゃない。

 死ぬなら一緒に、空の上で、だ。

 吹き出る汗を拭ってやる。震えるローラムにカシーが持ってきた水を無理やり口を開けて流し込み、傷口にも水をかける。体の内と外から、少しでも薬の成分が薄まってくれることを願う。火蜜以外にもやはり体の自由を奪う成分も混ぜられているのかもしれない。

 どれだけの分量を投与されたのかわからないことが、この上なく恐ろしかった。

 

 

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