檻の中の主
精一杯の誠意は、ただ見せるだけではだめなのだと悟ったのは、檻の中に横たわる人を見た瞬間だった。
「エルトン様!」
駆け寄り、力の限り引っ張っても、鉄格子はびくともしない。隙間から手を差し入れてみるが当然届かず、空しく宙をかくだけだ。
「どうして、こんなところに」
僕のせいですか、と呟く。ぽたりと落ちたのは涙か、それとも生き物も結露をするのだろうか。
本格的な夏に入ろうというのに、対策も何もない。
暑さに勝手に茹ってくたばれとでも言われているようだ。
地下の牢屋は直接陽が当たることはないが、焼却炉の真後ろだった。廃棄熱が入り込むようにわざとこの位置に設けられているとしか思えない。満足な窓もなく、唯一涼を望めるのは看守が出入りする入り口だが、独房からは距離がある。
「満足か?」
冷ややかな声にローラムは背後を睨み付けた。会わせてほしいと願ったのは自分だが、望んだのはこういう形ではない。
「領主の印を出せ」
代わりに要求されているのは、領主の証である印章だ。指輪の形をしており、例の血塗られた婚約式の時にも、領主は指にはめていた、らしい。
「知りません」
ぴしゃりと背を鞭で叩かれる。何度か前のタイミングでとっくに避けている皮膚から血が飛び出す。点々と石の床に落ちた血を、尖った爪先の靴が示した。
「拭いたら」
鞭がしなる前にローラムは手で擦った。
落ちない。
「雑巾、口の中にあるだろう」
断れば鞭が舞う。断らなければ別のものが飛んでくる。どちらを選ぼうが痛い目に遭うのなら、せめて早く終わらせられるほうを選ぼう。
エルトン様に見られないうちに。
ローラムは床に這いつくばり、舌を出した。鉄臭さに混じって細かい砂が口に入る。吐き出せば滞在時間が長引くだろうと、ローラムはできるかぎり口の中の一角に砂を集めてみた。上手くは行かなかったが、唾を吐かなかった分、早く切り上げられそうだ。
ここ数日、ローラムは領主の孫娘であるシャノンに、反抗的な態度をとっていない。一切、と言えないのは、印章に関しては真実を述べても受け入れて貰えないからだ。どんなにローラムが真実を述べていようと、彼女の中ではそれは真実ではなく、欲しい言葉でもない。彼女が受け取るのは印章の隠し場所、あるいは印章そのものだけだ。
彼女、とローラムは視界の隅でこっそりとシャノンを捕らえた。今日は明るい黄色のふわりとしたドレスを着て、髪を結いあげている。見た目は可憐な女性そのものだが、実際には、彼、だ。
二人が双子であることを、ローラムは少し前に知ったばかりだった。今シャノンとしてローラムの目の前に立っているのは、あの日エルトンの別邸でローラムたちを襲ったのと同一人物だ。そして、シャノンではないほうのシャノン。
サヴィアン。
彼は数年前に領主自身の手によってその身分をはく奪されている。理由は領主との不仲であるとされていたり、過激な散財だったり、駆け落ちだったりと噂によって様々だが、縁を切られているのは事実だった。
勘当された時に家を出て以来行方が知れないとされているとのことだが、密かに戻ってきたのだろう。自分と似ているのをいいことにシャノンとなり、領主の座を手に入れふんぞり返ろうとしている。
偉い椅子って、そんなにいいものなのだろうか。
最後の一つを舐めきって、ローラムは手で床を擦った。手の横に僅かにこびりついている血は、最初のときのものか。
この血だから、と言っていた人を思い出す。突然現れ、好き勝手やって、言って、どこかへ行った人だ。もう二度と会うことはない。顔だってうろ覚えだし、これ以上思い出してやるもんか、と思う。
けれどついていけば、本当の家族のことがわかったのだろうか。
血のつながりのある家族のことやエルトンに拾われる前のことで、覚えていることはほとんどない。懐かしいと思うのは下向きの花だったが、どうしてそれが懐かしさを誘うのかはわからない。
イラついた様子のサヴィアンが鞭を振りかぶったとき、チリンと鈴が鳴った。
「……チッ」
鈴の音は、サヴィアンをローラムから引き離してくれる。
今日はこれまでだと吐き捨て、カツンと踵で床を蹴り、鞭を振り下ろす。
「出てこい。こいつをまた閉じ込めておけ」
鞭が当たった場所から、わらわらとノジーが飛び出してくる。しわだらけでがさついた彼らの手が縄をローラムの体に巻き付けていく。抵抗する気力もなく、座り込んでされるがままになっていると、ローラムの耳に小さな声が聞こえた。
「エルトン様?」
振り向いても、彼は横たわったままだ。じっと目を凝らし、その胸が僅かに上下しているのを見て安堵する。きつく閉じられたエルトンの瞼は、開かれる気配がない。
でも確かに聞いた。
きみを守り切れずに悪かった――と。
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