不死鳥 ~The Phoenix~
賢者テラ
第1話『受難編』
「先生っ、北見さんがまた……!」
T大付属病院の第二閉鎖病棟。
真夜中でさえ気が抜けないような患者が多数入院しているこの精神病棟では、一日の内に数回も目を背けたくなるような出来事が起こってしまうのが常であった。
当直の精神科医、風間満彦は深夜勤の看護師の声を聞くと、弾かれたように椅子から立ち上がった。先頭を走る看護師の後を追いながらも、風間は事態の掌握に努めた。
「その……何だ。ひどいのか?」
この道10年のベテラン主任看護師・吉峰真希は立ち止まって、首から下げていたIDカードを機械のスリット部分に通し、重々しい格子扉を開けた。
まるで刑務所のような厳重さである。
「はいっ。とりあえず彼女を取り押さえて、応急の止血を試みています。ただ、あそこまでされるともう救急救命でないと」
ベテランの吉峰をして震え上がらせるのだから、よっぽどの惨状なのだろう。
「もう、救命には連絡を……?」
目的の32号室に着いた吉峰は、腰に下げた沢山の鍵束の中から一つを選び出し、震える手で鍵穴に突っ込む。
「ええ、二分後にはストレッチャーを引いて飛んでくるはずです。北見さんはまだ意識があって錯乱状態です。輸血も大至急ですが、とりあえず先生にクロチアゼパム(※抗精神病薬)を注射していただければ……」
少しの力では開かない重々しい扉が開かれ、薄暗い病室内の様子が風間の目に飛び込んできた。
初め風間は、ウチの病棟の床って赤かったか? と思ったが、それは錯覚だった。それはすべて、この病室の隔離患者、北見恵理子の血だった。
その血の海の中で、まだ勤務二年目の若い看護師である大野真由は、恵理子の手に止血帯をくくり付けていた。
組織が壊死してしまうため理想的な方法ではないが、この場合生命の維持が最優先である。
恵理子は、自らはさみで指を切断しようとした。
何でそんなことをしたのか——
そういった疑問は、あまり建設的ではない。そのようなものに答えがでるのなら、今日の精神医学はほとんどの問題を解決できてしまうだろう。
……しかし、どこからはさみなんか入手したんだ?
医療チーム側は、刃物やとがったものが患者の手に渡らないよう、日夜気を遣っているというのに! 感心している場合ではないが、悪魔的な手際と知恵としか言いようがなかった。
ハサミ程度の器具では、骨は切断できない。発見時、白い骨を残してちぎれた肉の傷口からは、湧き水のようにドボドボと血があふれていた。
まだ経験の浅い大野はこのような特殊な患者をいきなり担当して、かなり怯えた顔つきをしていた。白いはずのナース服のほとんどの生地が返り血で染め上げられているのが、痛々しい。
風間がクロチアゼパムを3cc注射したところで、廊下にガラガラとストレッチャーを引いてくる音が聞こえた。どうやら、救命の人間が来たようだ。
「救急ですっ」
どんなにひどい状況でも、とりあえずの命を救うことにかけてはエキスパートである救急救命のチームは、恵理子を担ぎ上げると足早に去っていった。
「血圧、150/85、CTに連絡は行ったよな!?」
「血ガス・血算・生化……酸素5ℓ分用意しとけ!」
彼らがエレベーターに乗り込んでしまうと、深夜の閉鎖病棟に再び静寂が訪れた。
初め天井の蛍光灯をボウッと見つめていた大野は、火がついたように泣き出した。
ベテランの主任看護師・吉峰は彼女の肩を黙って抱いた。
慰めの言葉など、ただただ空しいものであることを知っていたからだ。
風間はため息を一つついて、掃除用具と消毒剤を取りに部屋を出た。
……とりあえず、この部屋をきれいにしなきゃならない。
恵理子の手の届くところになぜはさみがあったのか?
その責任問題を後日追及されることを思うと、胃が痛くなった。
北見恵理子について聞いている話は、こうだ。
彼女がW大の女子大生であった時に、すべての負の連鎖は始まった。
『ミスW大』にも選ばれたことのあるほど美人だった恵理子には、二人の異性の親友がいた。
一人は、秀才の玉城(たまき)。いま一人は大学野球のエース・村山。
ある日村山は、玉城を信用して一つの相談事を持ちかけた。そしてそれが、すべての間違いの引き金となった。
村山は、恵理子への気持ちを玉城に告白した。そして、恵理子自身も彼を選んだのだということを。
「……このことで、今まで仲良くやってきた俺たちが気まずくなるのは辛いんだ。お前なら祝福してくれるよな?」
「当然じゃないか! これからも仲良くやれよ、応援してるから」
口ではにこやかにそう返事はしていたが、その実心の中では憎悪の炎が燃え上がっていたのだ。
実は、玉城自身も狂おしいほどに恵理子を愛していたのだが、不器用さのゆえに今まで言い出せていなかったのだ。
その間に村山に先を越された形になった玉城の心は、次第に悪意にむしばまれていき、いびつに歪んでいった。
嫉妬の炎に囚われた玉城は、鬼畜となった。
恵理子を呼び出し、男女の力差にものをいわせて強姦した。
何度も彼女を嬲り倒し、自身の精力の限界まで淫虐の限りを尽くした。
精神的ショックのためか、それとも村山との仲のことで玉城に後ろめたい気持ちもあったためかは知る由もないが、ともあれ恵理子はこのことを外部の誰にも相談しなかった。
そして、ついに妊娠が発覚した。
その時にはもう堕ろすことができないほどに、生命の種は成長を遂げてしまっていた。
玉城は、怒り狂う村山を河原に呼び出して、刃物で殺害。
その足で、彼は恵理子の入院している病院へと向かった。
恵理子の病室に突然現れた玉城は、血だらけで刃物を持っていた。
恵理子への面会を断り、それでもなお進もうとする玉城を止めにきた医療関係者を、すでに三人刺し殺していた。
狂気に満ちた薄ら笑いを浮かべた玉城は、叫んだ。
……お前の大好きなあの村山の野郎は、さっき殺しといたぜ。
ヘヘン、ざまぁ見ろってんだ!
お前のお腹の子は、オレの子だ。
つまり、無理矢理犯されてできた悪魔の子なんだよ!
どうだ悔しいか、悲しいか!
生まれたら絞め殺すなり育てるなり好きにしやがれ。
もう、オレにはどうでもいいことだがなっ
その時、数名の警備員がドアから侵入してきた。
「そこまでだっ。大人しくするんだ!」
玉城は手にしていた血染めのナイフをカラン、と床に放り投げた。
「アハハハハ」
すべてをあきらめたような、空疎な笑い声が部屋に響く。
「……地獄で待ってるぜ」
言い終わった瞬間。彼の体は、開け放たれた病室の窓の外に躍った。
一秒を待たずに、グシャリという鈍い音が窓外から聞こえた。
どうなったかは、覗いてみるまでもない。
「うわああああああああああああもういやああああああああああああああああ」
悪魔の宣告によって、生きる希望と新しい命への望みをズタズタにされた恵理子は、気がふれたように泣き叫んだ。
母子ともに深刻な影響を受ける恐れがあることから、恵理子は緊急でICU(集中治療室)に担ぎ込まれた。
「ひどい……こんな救いようのない人たち、見たこともない」
その時、偶然居合わせた看護学校の実習生は、ショックから二度と現場に立てなくなり、医療の世界を去っていった。
数日を経て、玉城の両親、及び恵理子の両親が首吊り心中をしたというニュースが報じられた。
子どもが生まれてから、隙を見た恵理子は病院からフラフラと歩き出して、走行中のトラックに飛び込んだ。
即死でもおかしくない状態だったが、奇跡的に命が助かった。
ただ、命と引き換えに彼女は両足を失った。
そして一生消えない瘡蓋(かさぶた)状の皮膚が顔の大部分を覆い、自慢だった髪も半分以上の頭皮面積が禿げ上がることによって、見る影もなかった。
恵理子に養育能力なしと見た児童相談所は、とりあえず生まれた子どもを乳児院に入れ、里親を探すことにした。そしてその赤子には、まだ名前すら付けられていなかったため、親戚の者によって命名されることになった。
その時から、恵理子のこの閉鎖病棟での生活は始まったのだ。
……うっとおしい。
また命が助かってしまった恵理子は、足のない芋虫のような体を引きずって独房とも言える病室の隅まで這いずり、いまいましそうに天井のテレビカメラを見上げた。
部屋のどこに行っても、死角などない。余りに目の離せない奇行が目立ってきた恵理子を監視するために、つい先日取り付けられたものだ。
どうやって死んでやろうか、と考えることにも実行することにも疲れた恵理子は、空腹の故に食事を取れとの脳の命令を無視し続けた。
足のない恵理子のために置かれた低い机の上には、さっき看護師の大野が置いていった夕食がまだ手付かずで置いてあった。
食後に抗精神剤を飲まなきゃいけない関係上、このまま食べないでいるとまた面倒な目に遭いそうだ。
……確か、あれは夕食よね。
窓がないため、時々今が夜なのか昼なのかも分からなくなることがある。
壁の高いところに掛かっているデジタル時計を見て初めて、それが分かるといった具合である。
壁掛けタイプの時計でデジタル表示なのも珍しい、と恵理子は思った。
食事は食べたほうがいいと思います
……やれやれ。私もとうとう幻聴が聞こえるようになったか。
てか、今まで聞こえなかったのが不思議なくらい——。
その瞬間、狭い病室の中に光が満ちた。
床をすり抜けるようして、何だか不思議な生き物が目の前に現れた。
虹色の光の帯が、幾重にも病室内の空間に重なっては、落ちてゆく。
大きな黄金の翼を広げた様子から、どうやらその生き物は『鳥』だということが分かった。
……いや、生き物ではなくもっと超自然的な何か?
例えば、カミサマとか?
鳥は、恵理子を慈愛に満ちた眼差しで見下ろした。
あなたがたが『神』と呼ぶものと同じかと問われれば、厳密には違う、としか答えようがありません
「あんた……しゃべれる上に人の心まで読めるの?」
常人がこの場面に遭遇すれば、かなり取り乱したことだろう。
しかしすでに精神的にはギリギリの状態にあり、統合失調症の気もあった恵理子は、昔からの知り合いでもあるかのようにこの不思議な来訪者を受け入れ、自然に会話すら始めた。
私は あなたに興味があるのです
それを聞いた恵理子は、大笑いをした。
「こりゃケッサクだ。私みたいなクズに興味持っても、なーんも面白くもないと思うけどね。まぁ『不幸のサンプル』ってことなら確かに私以上のはいないかもだけどね」
その言葉の間に、不思議な鳥は病室の隅に行って羽根を閉じ、うずくまった。
しばらく、あなたと一緒にいます
とうとう、その場所にすっかり落ち着いてしまった。
「ちょ、ちょっと! まさかあなた、私が死なないように見張ろうとしてるんじゃないでしょうね? そんなもの、あのテレビカメラで十分足りてるわよ?」
それは、私の知ったことではありません
鳥はそう言って、光を発する大きな瞳を伏せた。
生きてほしいと願ってはいますが 最終的に自分をどうするかの決定権を持つのはあなた自身です だから私にはどうにもなりません
恵理子は拍子抜けして、仰向けに寝転んだ。
鳥は、さらに言葉をつむいだ。
あなたがたは可哀想です
命と自由という大きな宝を与えられていながら それを使いこなす魂の知恵がない
まるで 高度な機械を与えられた原始人のようなもの
「……それは分かるよ。だから戦争も不幸も犯罪も、この世界にはあふれてるのよね。……って、こんなことアンタに言っても『釈迦に説法』かもしれないけどね。私も、何不自由なく幸せに暮らしている人も大差ない。ただたまたまこういう目に遭ったか遭わなかったかの違いでしかない。どう? 私の言ってること、間違ってる?」
何かを考えているのか、鳥はしばらく無言だった。
ややあって、やっとその音楽にも似た美しい声を発して、鳥は答えた。
否定はしません でも——
次の瞬間。人間の声ではなく鳥の声で、ひと声気高く嘶(いなな)いた。
あなたは、まだ終わったわけではありませんよ
「やれやれ。さっきは『私にはどうにもなりません』って言ってなかったっけ? まぁ、それはいいとして、あんたのその確信は一体どこからくるわけ?」
恵理子には、その時鳥がフッと笑ったように見えた。
確かに気がつけば、いつの間にか鳥に対してムキになってしゃべっている自分がいた。しかし、こんなに気力を保って人(この場合は鳥……)としゃべったのは、あの事件以来だ。
いつのまにか、この鳥のペースになってるなぁ。悔しいけれど。
話は一番最初に戻りますが その食事はやっぱり食べるべきです
いつもの恵理子なら、そんなことを言われれば余計反抗的になる。
なぜなら、傷みやすい心を持ってしまった彼女は、相手の言うことが恵理子のことを思って言ってるのではなく自分の仕事をきちっと済ませるため(彼女が接するのは医療従事者だけだったから)としか思えなくなっていたからだ。
でも、この鳥の言葉には、そういった裏がまったく感じられない。
「……分かったわよ」
恵理子はヨイショッ、と両腕を踏ん張って体を起こすと、器用にちゃぶ台にも似た机の所まで移動した。
「食べりゃいいんでしょ、食べりゃ」
神秘の鳥が見守る中、彼女は冷めかけた夕食を口にした。
どうと言うことのない、じゃがいもと豚肉のスープにご飯だったのだが、久しぶりに食物を味わって食べた。
スプーンを口に運びながら、醜く歪んだ恵理子の目から涙が湧いた。
「……おいしいよ」
思わず、袖で涙を拭った。
モニターで恵理子の様子を見ていた看護師の大野が、飛んで走ってきた。
「全部、食べてくれたのね!」
恵理子が面食らったことに、彼女はダイビングするように恵理子に抱きついてきて、わんわん泣いた。きっと、本当にうれしかったのだろう。
ちょっと気恥ずかしかった恵理子だったが、不思議と嫌な感じでは……なかった。
しかしそれだけでは事態はおさまらず、すっかり喜んでしまった大野はそれを主任の吉峰に伝えた。そしてまた吉峰もわざわざ外来に出ていた風間医師に電話で伝えた。
まるで赤ん坊が生まれたという知らせを聞いた父親でもあるかのように、風間は飛んできた。
風間はケーキを四人分買ってきた。
そしてなぜか、恵理子の病室でパーティまがいのことが始まってしまった。
「他のナースには、内緒だぞ……」
声をひそめて釘を刺す風間に、「へいへい、リョーカイしましたっ」と敬礼する吉峰と大野。
不思議なことに、鳥の姿は恵理子以外には見えていないようだった。
現に、今もすぐ横で羽根の毛づくろいのようなことをやっているのだが……
誰も、反応する者はない。
皆が帰った後で、恵理子は鳥に尋ねてみた。
「あんた、いつまでここにいる気? あんたみたいなのは世界中を駆けずり回るので、忙しいんじゃないの?」
ご心配なく
長い首を上げた鳥は、恵理子を見つめた。
私の名は『永遠』ですから
「……はぁ」
分かったような、分からないような答えである。
要は、この鳥は気の済むまでここを動かない、ってことだ。
「でもさぁ」
少し眠くなった恵理子は、バランスを崩さないように壁にもたれて、背伸びをした。
「ずっとアンタ、って呼ぶのも失礼だし、かといって『永遠さん』って呼ぶのも何か変だし。一体何て呼べばいいかしらね?」
鳥は真面目な声で、しかし冗談のようなことを言った。
別に『あんた』でも結構です
数日して少し気力が湧いてくると、恵理子は一日中ある時間をヒマだと感じるようになった。
「あのさぁ、私せっかくあれだけのひどい目にあったからさぁ、それをネタに文章でも書いてみようかと思うんだけど……どう思う?」
飽きもせず、同じ場所に留まり続けている鳥に聞いてみた。
おやりなさい
何か複雑な答えが返ってくるかと身構えていた恵理子は、少々拍子抜けした。
回復の兆しが見えたとはいえ、とがった筆記用具を与えることに躊躇した病院側は、恵理子に一台のPCを与えた。
両手だけは自由に使えた恵理子は、一心にキーボードヘ指を這わせてゆく。
時には、辛いことやおぞましい出来事も思い出さなければならなかった。
その度に恵理子は苦しさのあまり胸をかきむしり、机に頭を打ち付けた。
しかし、彼女はそれでも文字を綴ることをやめなかった。
鳥はその間中、恵理子がどんな状態にあっても動じず、また一切の口を挟まずに彼女を見つめ続けた。
……お書きなさい あなたの人生のすべてを
あなたの生きた証を 今こそ世に示しなさい
そしてあなたの生が世の光となるように
そして 闇がこれに勝てぬように
さぁ、書くのです
二週間をかけて一気に書き上げられた恵理子の小説は、風間医師と吉峰主任の協力により、出版社主催の新人賞に応募された。
そのあまりに衝撃的な内容と魂の叫びに肝を潰した編集部は、新人賞の選考の審議を待たずに、早々にこの小説の出版を決めてしまった。
恵理子は、その朗報を閉鎖病棟で受けた。
その日の夕方。
風間医師は一流料理店からコース料理の出前を注文し、その場にはもちろん吉峰主任と大野も参加して、喜びを分かち合った。
ただ、マスコミの恵理子本人への取材だけは、彼女の現状を踏まえすべて断った。
……幸せって、確かこういう感じだったっけ?
忌まわしい事件の起こる前。何も考えず、ただきらめくような青春を謳歌していた頃の自分を、久しぶりに思い出した。
神秘の鳥はすまし顔で、恵理子に何も言わなかった。
その夜。
興奮でなかなか寝付けない恵理子は、ぼんやりと天井を見つめていた。
急に、鳥の声がした。
約三ヶ月余りを同じ場所から動くことのなかった鳥は、突然立ち上がりその雄大な翼を広げた。
……お別れの時が来ました
恵理子は、手をついて起き上がった。
「そっか。いつかは、と思ってたけど、いよいよ行っちゃうんだね」
あなたは、もう死にます
何の前振りもなくいきなり言われたその一言に、恵理子は言葉もなかった。
あなたはよく頑張りました
鳥は、まるで大したことなど言わなかったかのようにいつもと変らない調子で言う。
「ふぅん。そうなの」
恵理子は、意外にも心が騒がなかった。
いや、凪いだ水面のように穏やかであった、と言っても差し支えない。
進んで死にたくはない。
かといって、何が何でも生きていたい、という執着もない。
私は成すべきことを全て成し終え、走りきるべき行程を走りきった。
そっか。これが人間が死ぬ瞬間に到達すべき境地なんだね。
この一瞬を迎えるために、人は日々を積み重ねて生きているんだね。
死は、誰にも平等に訪れる。私たちはこんなことでもなければ、そのことを忘れて流されるように日々を生きてる愚かな存在。
色々あったけど、私は私なりの決着のつけ方で締めくくれたよ。
ありがとう、父さん母さん。
ありがとう、村山君。
そして今だから言える、
もう、いいんだよ…… 玉城君。
それ以上苦しまないで。
私は あなたを ゆるします
恵理子の心の内の平安を見てとった鳥は、その雄大な黄金の翼をはためかせて、壁をすり抜けて飛び去って行った。
「私の子どもたちよ、あとはよろしく——」
仰向けになり、胸の上で両手を組んだ恵理子は目を閉じた。
そして、悲しみも苦しみもない世界へと、自らを解放した。
あくる朝、病室で冷たくなっている恵理子を、風間医師が発見した。
死因解剖の結果は、敗血症だった。
享年24歳。短い人生だった。
恵理子がこの世に残した手記は多くの読者を獲得し、彼らに生きる希望を与えた。
15年後の夏。
母親の真実を知らされたある少年は初めて、今まで知ることのなかったその母の墓参りをした。
墓前で手を合わせる少年のはるか頭上で、一羽の巨大な鳥が飛び去って行った。
しなやかな光る翼をはためかせ、虹色の光の残像を大気に残しながら。
手を合わせている間中上を向くことのなかった少年が、それに気付くことはなかった。
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