ひとりにしないで

茉里は走った。

恐怖で頭がパニックになりそうだった。石を持つ手はどうやっても開かない。湖岸から走って離れると、すぐに白樺の林に出た。この林を抜ければペンションにたどり着く。

ペンションに着いたら、茅野親子に全てを話そう。そして、この恐怖を自分だけのものにしないようにしよう。

いまの茉里には、他の人間を巻き添えにしないでおこうという考えは浮かばなかった。ただひたすらに、自分が助かりたかった。

あの青白い顔の男は、何もかも知っていた。出会ったこともないし、もともと知っている人間でもない。だがそれが不思議だという事実以上に、石が離れない恐怖と、昨夜の出来事に、茉里は支配されていた。

ペンションに着くと、茉里の息は上がっていた。季節は夏。避暑地にいるとはいえ、ずっと走っていればたくさんの汗をかく。

「茉里さん、どうしたの? そんなに汗を掻いちゃ、お客さんの前に出られないよ。シャワーでも浴びてきなさいな」

息を切らす茉里をシャワールームに連れて行くと、翠はゆっくりとその扉を閉めた。

「翠さん、ひとりにしないで」

茉里は、そう呟いたが、誰にも聞こえるはずはなかった。石を持っている右手は、もう開くことができていた。おそらく、あのコスメポーチのある、このペンションに入ることで石は茉里から離れるのだろう。

茉里は、一抹の恐怖を拭えないまま、シャワー室に入った。温かいシャワーの湯が、汗で冷めた体を温めていく。そこで安心した茉里は、今までのことが全て錯覚なのではないかという考えを持つようになった。

シャワーを浴び終わり、体を拭いて服を着る。すると、最後に残った翡翠のような石が、ごろりと床を転げた。

「及川……」

茉里は、湖岸で会った不思議な男のことをふと、思い出した。

「今日の宿泊客に本当にいたら、確かめてみよう」

石が手にひっつかないことを確認して、茉里は石を拾った。そして、借りていたバスタオルに包むと、自分の部屋に戻っていった。

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