月の魔法/2

 構内の自由な出入りを金で買いつけた男は、親指だけをポケットにつっかけて、長い足で廊下を足早に歩いてゆく。


「またどっか行っちまうかもしんねえだろ。もたもたしてっとよ」


 大学の建物内に入り込んでいる、背の高い男。女子大生たちが群れをなして追いかけてくるが始まった。だが、それはいつものことだ。何度ここへきても、何年経っても変わらない。


 囲まれて動けなくなる前に、目的地にたどり着かなくてはいけない。足の長さを駆使して、女子大生たちを引き離し、廊下の角からひとつ目のドアへ近づいてゆく。


「~~♪ ~~♪」


 そして、とうとうやってきた。歩みを止めると同時に、立派なドアをドンドンと強めにノックした。しかし、返事はなし。 


「いんのに出やがらねえで」


 相手の断りなしで、ドアノブを回して何度も引こうとするが、ガタガタ音がするだけで、動く気配がない。


「開いてもいねえ」


 どうしても会いたいのだ、この部屋の主に。今日を逃したら、またいつになるのかわからない。無駄だと知っていても、携帯電話をポケットから取り出した。 


「かけてみっか?」


 この番号にかけると必ず聞こえてくる、女の電子音声が流れてきた。切るのボタンを強めにタップする。


「充電切れてんだろ」


 もう一度かけてみようとしたが、問題はそこではないことに気づいて、あきらめたため息をついた。


「っつうか、電話は外国に置いてけぼりってか?」


 電源が入っていないのではなく、存在そのものがその人の脳から抹消されている携帯電話。人生の基本的なところがめちゃくちゃな、中にいるであろう人に、しゃがれた声でぼやいた。


「携帯電話っつうのは携帯してっから、そう言うんだろ」


 右手で山なりにポイっと携帯電話を投げて、左手でナイスキャッチすると、慣れた感じでポケットにしまった。


「しょうがねえな」


 口の端でニヤリと笑うと、男はドアから二、三歩後ろへ下がり、右足を自分の胸へ引き上げ、


「ふっ!」


 ドアへ向かってまっすぐ勢いよく押し出した――――



 ――――少し時間は戻る。

 

 小さな砂埃を細心の注意を配り、ハケで丁寧に払う。優しさでいつも満ちあふれている茶色の瞳は、今や真剣そのものだった。粒子のひとつさえも見逃さないというように凝視していた。


「…………」


 そしてまた、砂埃を慎重に払う、白い手袋をした手に持ったハケで。今度はループに持ち替え、対象物を拡大して、目を皿のようにする。


「…………」


 布を敷いたテーブルの上から、小さなカケラを拾い上げた。細い線が作り出す模様と模様がピッタリ合うかを見極める。ひとつ目は違う。


「…………」


 チャイムの音が不意に響いても、その人の耳にはまったく入ってこなかった。聞こえないのではなく、意識が向かないと言った方が正しい。


「…………」


 別のカケラを拾い上げて、また近づける。ふたつ目も違う。背を向けているレースのカーテンの向こうで、ガラス窓が強めにノックされたが、それもこの男には聞こえなかった。


「…………」


 背が高くガタイのいい人影はあきらめて、窓から去っていった。


 少し離れた場所にある書斎机の椅子。その背もたれには、茶色のスーツの上着と緑のネクタイがよれた姿でかけてあった。


「…………」


 部屋の外の廊下がどよめいてきたが、ルーペをのぞいている男には蚊帳の外だった。しかし、次の瞬間、


 ドガーン!


 と、爆音が響き渡り、持っていたカケラが手からつるっと落ちて、テーブルの上にコトンという鈍い音を作り出した。


「っ……」


 細かい作業中に起きた事故。この静かな大学校内で、こんなことをする人間は一人しかいない。


「おう!」


 がさつな男の大声がとどろいた。予測した通りの人物で、カーキ色のくせ毛はかがんでいたのをやめて、ルーペを脇へと置く。


「…………」


 静かに待っていると、床を歩く靴の音がカツカツと響いてきて、


「ったく、返事もしやがらねえで」


 そして、いつも通りの歩数で止まり、


「っ!」


 勢いをつけるような息が聞こえると、ドサっと何か大きなものが落ちたような音がした。


 もう一人増えた部屋。相手がどんな姿勢でいるのか容易に想像できて、優しさの満ちあふれた茶色の瞳は軽く閉じられて、表情を少しだけ怒りで歪めた。

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