第3話 ローマは一日にして成らず

 そう言えば先週のこの時間だったなぁ、と思いながら学部前に差しかかる。ロッカーに置きっぱなしにしていたテキストがあった。

 それはまずいって、と思いつつ、例の、彼女が北澤を待っていたベンチが近くなる。少しだけ、ほんの少しだけ期待してしまう自分がバカみたいだった。まるで自意識過剰な変態野郎だ。

 ――ドンッ!

 うおっ? とよろめく。あまりの激しさに危うく転びかけた上にどういうわけかひどく咳き込む。

「わ! 西くん、大丈夫? そんなつもりじゃなかったの! ちょっと、かわいく驚かせたいなぁって」

 ちょっと? どこがちょっとだ!

 176センチある僕がよろめくくらい、力いっぱいに押しておいてどこがかわいいんだ。

「本当にごめんなさい。すごく反省してる」

 彼女はしょぼんとした顔で、僕の背中をさすった。彼女が触れているところに妙に意識が集中する。

「げほっ、だ、大丈夫だよ……転ばなかったし」

 北澤より東さんの方がよっぽど、少女マンガのドジっ子キャラのようだった。大きなガラス玉のような瞳には生気が満ちて、地面に前のめりになって座り込んだ僕を心配そうに見ていた。

「あの……コーヒーかなんか奢らせて下さい」

「いや、いいよ。北澤に悪いし」

 彼女は無垢な瞳で僕を見た。

「翔はまた講義だからいいんだよ。一人で待ってるのもさみしいし」

 そこ。

 つまり本題はそこなわけだ。それで彼女は前回に続き「いいカモ」である僕に声をかけたわけだ。

「あの、どこがいいですか?」

「敬語、今さらいらないですよ」

「西くんだって敬語じゃない」

「わざとだよ」

 会話が噛み合っているようでうわ滑っている。さてどうしたものか、と膝についた砂を払いながら考えた。何しろ、講義は始まったばかり。一時間半、たっぷりあるわけだ。

「じゃあさ」

「うん」

 じゃあさ、はおそらく、彼女の好きな言葉だ。食いついた感じがした。

 一人ではカフェも映画館も入れないくせに、好奇心が強いんだ。その好奇心をくすぐる。

「じゃあさ、例のコーヒーラウンジに行こう。なかなか居心地がよかったから」

「……うん」

 あまりお気に召さなかったようだ。もっと刺激的なところが良かったのかもしれない。でも今日は僕に選択権はあったし、僕は譲らなかった。

「ただその前にちょっと寄りたいところがあるんだけどいい?」

 彼女の表情はわかりやすい。

 真新しい予測不能な出来事に、俊敏に反応する。要は素直なんだ。

「どこに寄るの?」

 歩き出した僕の右手の小指を、彼女は握りしめた。まるで彼女が、僕のかわいい彼女であるような錯覚に陥る。さすがにやっぱりそれはまずいよ、とセルフレームの眼鏡がずれる。

「ここだよ」

「図書館?」

「そう、コーヒーラウンジで本を読んでみたいってそう思ってたんだ」

「……おしゃべりは?」

「今日はおしゃべりは少し」

 えー? と躊躇うことなく彼女が声を上げた。僕はしーっ、と人差し指を口元にあてた。

 彼女はどの棚を見るべきか迷っているようだった。

「本好き?」

 こくん、と彼女は小さく頷いた。僕は少し安心した。

「それじゃあさ、堅苦しく考えないでどんな本でも読みたかった本を持っておいでよ。でも少し急いでね。コーヒーを飲む時間が無くなるよ」

 僕はわざと最後の一文を小さな声で囁いた。彼女は今度は大きく頷いて、階段を上っていった。どうやらあてがあるらしい。いいことだ。

 借りたい本を持ってエントランス付近で待っていると、彼女は僕を見つけて小走りにやって来た。図書館の中で走るなんて彼女くらいのものだ。彼女は衝動で動いている。

「あったの! よぅく探したらあったの。でも決められなくて二冊持ってきちゃった」

 彼女の手にあったのは、一冊は一般向けの鉱物図鑑で、もう一冊は村上春樹の小説だった。

 僕が思うに、村上春樹には女性を惹きつける特別な何かがあるようだった。鉱物図鑑もまたしかり。

 僕たちは一緒に貸し出しの手続きをして、それを手にコーヒーラウンジに向かった。

 最初、あまり乗り気ではなかった東さんは今ではご機嫌だった。

「この間」

「うん」

「東さんがラウンジを出た後、あの時にいた教授が本を読んでいたんだ。あの軋む、ソファと言い難いソファに座って」

「だから本を借りたの?」

「一緒に読もう。ただしグラスの水滴が本のページに落ちないように気をつけて」

 こくん、と満足気な顔で彼女は頷いた。ミッションのような説明が気に入ったのかもしれない。自分に「よくやった」とも言えたし、「やれやれ」という気分でもあった。

 忘れてはならない。彼女は北澤の彼女だ。

「ねぇ、でもそうしたらおしゃべりはどうするの?」

「うーん、そうだなぁ。おしゃべりってもっと賑やかな店がいいんじゃないの?」

 彼女の眉間にシワができた。考え事をしている。あるいは僕を意地悪だと思っているのかもしれない。

 彼女からしてみれば、大好きなおしゃべりは封印されたんだ。不機嫌そうだ。

「まぁ、ともかく入ってみようよ」

 コーヒーラウンジは相変わらず閑散としていて、僕らはアイスコーヒーを頼んだ。琥珀色の液体は光を屈折させてテーブルに投影していた。

 不服そうな彼女は鉱物図鑑を手にした。紫水晶や、ターコイズ、オパールなど馴染みの宝石が見て取れた。彼女は解説を読むまでもなく、ペラペラっと写真だけを眺めてページをめくった。

 僕はかねてから興味があった塩野七生の「ローマ人の物語」を取り出した。「ローマは一日にして成らず」、ずっしり、物理的ではない重みを感じる。偉大なるロムレスから始まる物語の序章を、時折コーヒーを飲みながら読み込んだ。

「……ねぇ、西くんの読んでる本、どんなの? ずっと読んでるけどそんなに面白いの?」

 やれやれ、彼女の口をふさぐのはどうやら難しいようだ。この物静かな空間でクラッシックを聴きながら読書をしても、彼女は止められない。

「これはね、歴史の本だよ。ローマ人と、ローマという国の歴史について書いてあるんだ」

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