寂しい椅子
鈴木 海斗
第1話 思春期・始まり
彼女のことを書きたいと思う。僕の生涯で最も好きだった人のことを。
彼女の名前は、マイカ。三崎舞花という。僕の名前はカイト。鈴木海斗。僕の名字は日本で五指に入る平凡さなので、下手するとクラスに3人同じ名字がいたりする。昔からカイトとかカイくんとかカイ坊とか呼ばれるのが普通だ。英語に引っ掛けてタコ(凧だけどね)と呼ぶ不届き者もいる。
それはさて置き、僕と舞花は同い年で、当時中学二年生。クラスメイトだった。最初の印象は、実を言うとあまり覚えていない。
あれは確か、六月のこと。新しいクラスにも慣れ、ちょっとしたきっかけから仲良しグループができて、やがてグループ外のクラスメイトに興味が向けられる、そんな時期だった。この頃はみんな、クラスメイトを観察している。特に女子は顕著だ。この年頃は、男子はまだまだ子供。女子は男子よりずっとおませだから、常に誰かを槍玉に噂の花を咲かせている。
何となく周囲の態度に居心地の悪さを感じていた僕は、ある時、誰だったか隣の席の女子に囁かれた。
「ねえ、
「えっ、いや、そんなことないよ、見たりしてない」
「自分で分かってないの、証拠は上がってるのよ。今日だって朝からずっと見てるよ」
まったく考えてもみなかったことをいきなり、面と向かって指摘されてしまった。その時の僕はどんな顔をしていただろう。あまりの衝撃に、ムンクの「叫び」みたいな顔だったかも知れない。
考えてみると指摘されたことは間違いではない。確かに彼女のこと、可愛いと思っていた。長い髪をツインテールの三つ編みにして、先生や黒板を見つめる横顔。休み時間、とても楽しそうに友達と話す、弾けるような笑顔。言われてみれば、確かに見てたな。つい僕の目は、彼女に吸い寄せられてしまうんだ。でもまさか、女子の中で噂になるくらいずっとガン見してたとは、その上指摘されるまで気づかないとは、恥ずかしすぎる。
このことをきっかけに、僕は彼女のことを意識せざるを得なくなった。知らず知らず浸ってた、ぬるま湯のようなアイドル鑑賞は、ブチッといきなり強制終了されてしまい、彼女がいる景色はまるで質の違うものになってしまった。見たいのに、素直に見られない。また彼女を見ていることを誰かに見られている、噂になる。そして、周囲から意識させられたことで、自分の気持ちを見つめざるを得なくなる。自分で自分をコントロールできない。どんどん、どんどん舞花のことを好きになっていく。そうか。これが恋なんだ。
待てよ。もうひとつ、さらに厄介なことに気づいた。こんなに噂になって、もう一方の当事者が無関係でいられる訳がない。いや、もしかしたら、噂の発信源自体、彼女なのかも知れない。
「なんか、私、鈴木くんにずっと見つめられてるみたいなの」
彼女にそんなことを言われているかと思うと頭を抱えてしまいそうだ。
どうしよう。経験値ゼロ。当たり前だ。中二で、思春期で、ようやく自分が何たるかを考え出した頃。そんな時期に初めて直面したアイデンティティの危機なのだから。気にすれば気にするほど、悩めば悩むほど、彼女が僕の心を占有し、浸食されていくようだ。紛れもなく、地獄のような、煉獄のような、まさに焦がれる片思いにはまってしまった。
これが、初恋。だけど、死ぬまで付き合う病になろうとは、この頃は気付く由もなかった。
夜も朝も、寝ても覚めても、舞花のことを考える。でも、夏休みは会えない。来る日も来る日も、今日は何をしているんだろう、と悶々と考えていた。
僕らの中学校は、当時、いくつかの小学校の校区を集めた広域の校区を持っていた。僕たちは小学校は別々で、彼女の住む町に行くには、自転車で15分いくらい走る必要があった。暇にまかせては、その辺りを自転車で走り回り、舞花の面影を探す。そして叶わず、何をするともなく帰ってくる。そのうち、その辺りに住むクラスメイトの中西克則や赤川睦夫と仲良くなり、すでに好きと知られている開き直りで、舞花のこれまでのあれこれを色々聞いたりもした。
舞花は一言で表現すると、天真爛漫で活発な女の子。もちろん美少女なので、モテる。やっかみからか、いい噂ばかりでもない。ライバルはクラスの中にも外にも数多くいる。どう考えても、女子にからかわれておどおどしている僕なんかに、勝ち目があるようには思えない。
一時クラスを騒がせた噂も、みんな飽きたのか、うるさく言われなくなった。僕の片思いは周知の事実として定着し、女子たちがさえずる話題としては新鮮味を失ったようだった。そもそも話題を引っ張るには僕ごときキャラじゃ役不足だ。
一方で僕に対して彼女の態度はずっと変わらなかった。波立つ心を隠していたのか。それとも僕など眼中にないのか。
彼女に近づくためにどうすればいいか。クラス一目立つ、スポーツ万能で勉強も上位の
そのうちに誰だったか女子の発案で、グループで交換日記を始めた。参加者は男女8人。男連中も照れ隠しで斜に構えながらも、楽しんでいるみたい。ただ、聡は「面倒くさい」の一言で参加しない。交換日記は彼の主義ではないらしい。それはそれでカッコいいな、とも思うけど、僕は好奇心の方が遥かに大きく、参加しない手はないと思った。女子と日記を交換する展開に、思春期男子として、かなりわくわくしていた。
舞花は本が好き。詩を書く。自分をアイコン化したようなイラストも書く。何故か、カッパに見立てたキャラだ。由来は聞いていない。交換日記で知らなかった側面が少しずつ分かってきて、ますます舞花に深入りしていく。彼女に気に入られたくて、僕も初めて詩を書いてみる。すると舞花は日記に素敵な評価をくれた。嬉しかった。僕も昔から本が好き、絵を描くのも好きだ。僕らはとても趣味が合う、そう思えてきた。他の参加者とのやり取りは煩わしいこともあるけど、交換日記がとてもとても楽しくなった。
ちょうど当時、周囲でギターを弾ける奴が数人いて、欲しくて欲しくて親にねだって買ってもらい、練習を始めた頃だった。やがて、作った詩に曲をつけるようになる。気持ちをそのままぶつけたような稚拙な歌。でも始まりはそんなものだ。思えば、この頃の舞花や友人達との触れ合いが、その後の僕の嗜好を決定づけた気がする。
季節は、秋。
秋と言えば文化祭だ。実は何の催しをしたかは覚えていないが、クラスの催しのために、舞花の側で、彼女と一緒に看板や飾りを作るような作業をした。確か聡が持ち込んで、あっという間にグループの間で流行ったアーティストの、いくつかの歌を口ずさみながら。
放課後の二時間ほどの準備作業を終える頃、外はもう夕暮れ。学校の非常階段から夕陽を見た。秋の夕陽は鶴瓶落とし、国語で習ったんだっけ。見ている間にみるみる太陽は姿を隠し、空は夕映えで
何故だか、切ない気持ちを持て余した帰り道。一生の中で最も貴重だったとも思える、まるで宝石のような時間だった。夜、風の匂いが教える、季節は移ろい人を寂しくさせる。
文化祭が終わった後、僕は舞花に手紙を書いた。もう、彼女へ向かう気持ちの大きさに堪えられなくて、伝えずにはいられなかったんだ。
「君のことが好きです。できれば僕と付き合ってください」
何のひねりも、テクニックもない。繰り返し言い訳するが、まだ恋愛初心者なので。
彼女の返事は「海くんは、私の大切な友達と思っています。これまで通り友達として仲良くしてください」こんな感じだったと思う。
何となく分かっていたことだった。僕は舞花の恋愛対象ではない。でも、君は一生懸命、僕を傷つけないために言葉を選んでくれたんだね。心から感謝するよ。
振られた辛さより、自分の感情のままに舞花を巻き込んだことに自責の念が生まれた。結果が分かっていたならなぜ、彼女を困らせるようなことを書かなければならなかったのか。僕は十分に落ち込んだ。仕方がない。思春期真っ盛り、人生初の失恋なんだから。でも、頑張って気持ちを伝えることは大事なステップだったんだと、今の僕なら言ってあげられる。むしろ、振られた相手を
思いは募る。
しかし、さすがにお互い話しかけるのも少し気まずくなり、舞花と微妙に距離を感じるようになった。一方で、交換日記メンバーの1人である、聡と同じテニス部の河本康成が、舞花と仲良く話す光景をちょくちょく目にするようになった。
実は、康成と僕はあまり気が合わない。今から思うと、先に噂になった僕を向こうが敵視していたのかも知れないが。舞花は目立つので、康成と二人の姿にまた女子達はさえずる。明らかに康成は舞花に惚れている。ライバルだ。でもすでに振られてしまって謹慎中のようになっている僕には、なすすべもない。
眠れない夜は寝床に入り、ラジオの深夜放送を聴いていた。時には心が震えるような曲に出会った。切なさへの共感、これも舞花に出会ったから。傷ついた心の襞にふとしたフレーズが染み込む。容赦なく心を波立たせる。大人への階段を登っているのか、それとも病んでしまったのか。舞花、僕は苦しい。君を諦められない。やはり僕は、君のことしか考えられない。
三学期に入り、突然、舞花は自慢の長い髪を切ってきた。ちょっとマッシュルーム風の、セミロングヘアになった。クラスがざわついた。それほど、彼女の中学生らしい、長いツインテールはトレードマークだったから。クラスメイトに続々と突っ込まれ、顔を赤らめながら言葉を返す彼女。
「思い切ったね〜」
「うん、お母さんがそろそろ切ってみなさいって。ヘアサロンで切ってもらったの。どう?似合ってるかなあ」
「大丈夫、似合ってる。素敵よ」なんて、会話に聞き耳を立ててしまう、ラビット海斗。
舞花が急に大人びて見えて、ますます話しかけづらくなる。彼女が、少しずつ綺麗になっていく。
ある日の放課後、舞花が一人で教室の掃除をしている。僕は教室を駆け出そうとして、止まった。他の掃除当番はどうしたんだろう。そうだ、俺、美化委員だし(言い訳が立つし)手伝ってあげなくちゃ。今なら話しかけられそうだ。そう思い、久しぶりに声をかけた。
「三崎、掃除一人なんだね、手伝うよ」
「え、うん。ありがとう」
いつもの花が咲くような笑顔を向けてくる。それだけで幸せになる。彼女と一緒に何かできるのが、この上もなく嬉しい。文化祭の時、何が楽しかったって、一緒に歌を歌って作業したことだった。
ほっこりした気分は、いきなり不吉な音に遮られた。
ガシャン!
僕は誤ってほうきの柄を勢いよくぶつけ、教室の引き戸の窓ガラスを粉々に割ってしまったのだ。
(しまった)(カッコ悪!)まず浮かんだのはそれだった。あろうことか、待ち望んだ彼女との作業で。なんてドジなんだろう…。
破片を片付けた後、そんな僕を尻目に、彼女はそそくさと教室を出て行った。職員室に行くんだろう。僕はおずおずとついて行った。
「センセイ!」担任の北村先生、北じいが、座ったまま振り向いた。
「どうした、三崎」
「私、掃除していて教室のガラス割っちゃいました」
(えっ!?)
「違います」とあわてて僕が被せる。
「ほうきをぶつけてガラス割ったのは僕です」
「いいえ、私が割ったんです」
「いえ、僕です、三崎さんじゃありません!」
想定外の彼女の行動。自ら手伝ってくれた僕に、責任を負わせちゃいけないと思ったんだろう。でも、それに甘んじるなんて考えられない。それに甘んじたら、僕は男じゃない。
「まあまあ、わかったわかった。君たち二人が掃除していて割ったんだな。でも、鈴木は今日当番だったか?」
「鈴木くんは、一人で掃除している私を自分から手伝ってくれたんです」
北じいは何故だかとても嬉しそうにニコニコしていた。
「そうか、いたずらして割ったんじゃないんだから、まあ、そんなこともあるさ。気にするな。修理は頼んでおこう」
ガラスの弁償は結局どうしたのか忘れたが、あの時即座にあの行動が取れるなんて、尊敬に値する。僕には到底できない。舞花は誰が何と言おうと、素晴らしく心の綺麗な子だと思った。
ガラス破損事件のお陰で、掃除をサボった男子二人がその後北じいにこってり絞られたらしい。彼らが僕に因縁を付けに来た。
「おい海斗、お前いいカッコして掃除手伝ってガラス割ったんだって?それで俺たちのこと、ついでにチクッたのかよ」首に腕を回してきた。やれやれ、面倒だ。
「あなたたちのこと、私がチクッたのよ。文句ある?」
いつからいたのか、後ろからわかりやすく腕組みをした舞花が言い放った。クラス中に聞こえる声で。期せずして見世物になってしまったサボり二人組は、舌打ちして消えるしかなかった。その時初めて、僕は舞花にウィンクをされた。胸がチクッと痛んだ。でもとても幸せだった。
その後の北じいとの進路面談の際、ずばり聞かれた。「鈴木は、三崎さんと仲良くしているのかい」
「付き合ってるのかい」と聞かれたら「いいえ」と答えられるが、「仲良くしているのかい」と聞かれると…「ええ、まあ」いや、確かに仲はいいよな、なんて。希望的観測が入り込んで認めるような返事になってしまう。
「お互い、学生らしいいいお付き合いができるといいな」
やっぱりこの人、勘違いしてる。舞花にも同じことを話すんだろうか。そしたら舞花も僕のような返事をするんだろうか。
「鈴木は、クラスじゃずっと成績上位だし、高校も悪くても学区の中で上位三番目くらいのところには入れるだろう、このまま行けば」
北じい、貴方は生徒への伝え方を間違えた。お墨付きをもらった、と勘違いした僕は、三年生で受験勉強をしなくなる。受験は定員があって相対評価だから、自然と成績を落とす結果になる。結局上位三番目までの高校は受けられず、公立は学区では中位の高校を受けることになった。
楽しかった中学二年の1年も終わる。最後の日、並べた椅子に、お互いクラスメイトに無理矢理座らされて、写真を撮った。1枚きりの、当時の舞花と僕の二人きりの写真。何の屈託もありそうにない、はにかんだ少年と明るい笑顔の少女がそこには写っている。
中学三年の1年間は、さして楽しくないものだった。クラス替えで舞花とは別のクラスになり、グループのメンバーとも誰ひとり一緒にならず。自然の成り行きとして、交換日記も途切れることになった。
そろそろ経験しておきたい、と思い、クラスの委員長に立候補した僕は、不良グループから「あいつ、いい気になってる」と標的になったりした。受験のストレス、気の合わないクラスメイトとのいさかい、色々あって、早く過ぎ去って欲しいと思った憂鬱な1年間だった。
高校受験。僕は、合格率が五分五分以下、と言われていた私立の順風学園高校に、すんなり受かった。
次に、公立。受かってオリエンテーションを受けた時の順風学園の雰囲気、学園長がスピーチで話した校風がどうも好きでなく、どうしても公立に受かりたかった。まあ、男子校ということもあった。少し志望を下げ、桜台高校を選び、受験する。受験当日の集合場所に、なんと舞花の姿があった。
「あっ、鈴木くん」「三崎、奇遇だね、桜台受けるんだ。一緒に受かるといいね」「うん、頑張ろうね」寒さからか少し赤らめた顔がやっぱり可愛い。頑張るぞ。絶対に合格してみせる。
後で聞くと、その年、桜台高校は定員割れになっていたらしい。受験した者は全員合格。こうして、舞花と同じ高校での高校生活が確定した。僕の高校生活は、きらきらと薔薇色の期待に縁取られたと言っていい。
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