死の帳降りて/4

 青白い顔をした女の不気味な笑みが、黒く乱れた長い髪の間から見えると同時に、颯茄は背中から突き飛ばされるような衝撃に襲われた。


「っ!」


 持っていた携帯電話が力なく床にガタンと落ち、水道から出る血だまりは広がり続ける。だが、動くものは誰もいない。


 玄関の曇りガラスから、街灯の明かりが、儚い命が闇に葬られるように点滅を繰り返していた。


    *


 前へ転がるように倒れ始めた颯茄は、訪れるであろう衝撃に待ち構えるために、いつの間にか目を強くつむっていた。


 両膝を何かにぶつけ、思わず苦痛の声を上げようとしたが、


「痛っ……????」


 強い違和感を抱いて、颯茄は目をさっと開けた。


「……くない」


 クリーム色の明るい場所にいた。一瞬にして、まわりの景色が変わる。こんな現象など起きるはずがない。


「どういうこと?」


 物理的におかしいことに気づいた。


「あれ? でも待って、今後ろから押されて、前に倒れた」


 パジャマ姿ではなく。白い薄手のミニスカートのワンピースと、膝までの古代人のような編み込みのサンダルを履いている。


 灯台下暗しで、服のことなどどうでもよく、颯茄は腕組みをして、考え続ける。


「シンクの前に立ってたよね?」


 確実にその場所にいた。あれ以上前には行けない。壁の向こうは道路だ。


「それに、体の感覚もおかしい気がするなぁ〜」


 風もない。いやそれどころか、温度がない。半袖でミニスカート。今は十一月。肌寒い服装のはずなのに、それを感じることもない。


 いつの間にかしていた地べた座り。とりあえず、目の前にあるクリーム色の何かに手をかけて、立ち上がろうとするが、


「よいしょっと……あれ?」


 向こう側へ、まるで水の中に入ったように指先が消えた。


「手が通り抜ける……」


 何度やっても、壁らしきものはつかめないどころか、触った感覚もない。


「どういうこと?」


 そこで、雷に打たれたような衝撃が颯茄の全身を貫き、両手で口を押さえてもなお、あたり中にとどろくような大声を上げ、


「あぁっ!?!?」


 超不謹慎発言を放った。


「死んじゃったっ!!」


 笑いどころではなく、がっくりと肩を落とす。


「あぁ〜、何がどうなったかはわからないけど、死んじゃったんだ……」


 いきなりのご臨終――

 それでも世界は動いている。颯茄は自力で立ち上がり、


「死んじゃったのは元に戻せないから、しょうがないね」


 ヤッホーっと叫ぶように、手を口元にかざした。


「天国はどこですか〜?!?!」


 しかし、答える者はいなかった。颯茄は別のことに気づき、手をパッと元へ戻す。


「いや、地獄行きかもしれない……」


 死後の世界の行き先は、人が決めるわけではない。自分が天国に行きたいと願っても、神さまがダメだと言ったら行けないのである。


 現世うつしよ常世とこよの間に流れているという、三途さんずの河までの道のりと思える場所。クリーム色の壁ばかりが続く。その前で颯茄は難しい顔をする。


「意外とわかりづらいんだね」


 不案内な霊界の入り口で、ウロウロする。


「誰かが迎えにきてくれるとか、『こっちです』、みたいな看板とか出てないんだ」


 そこで気づいてしまった。


「あぁっ!? だからか! 世の中、浮遊霊が多いのは。みんな、道に迷ってるんだ」


 颯茄は単純に心配した。物事の壁にぶつかっている時も、人は苦悩するのだろうが、何をすべきかわからない時の方が辛いのだと、身にしみてわかっていて。


「そうか。大変だなぁ〜」


 大きくため息をつき、右を見て左を見て、まわりをうかがう。


「私も成仏できる場所を探さないと……」


 浮遊霊になって、他の人に迷惑をかけるわけにはいかないのである。


「っていうか、ここはどこ?」


 颯茄のサンダルは歩き出し、T字の突き当たりへやってきた。ダウンライトの落ちる細長い空間を眺める。


「……どこかの廊下? なのかな?」


 家でないのは確かだ。長い通路で、人が誰もいない。


 颯茄は体を揺らしながら、何気なく振り向いた。そこには、銀の大きなドアが取っ手もなく佇んでいた。


「これはどこにつながってるのかな?」


 その存在を抹消するように、表札も何もない。颯茄は両手を胸の前で軽く握る。


「触れないよね? そ〜っと、あぁ、やっぱり触れ――」


 伸ばしてみたが、通り抜けた。だが、さっき壁を貫通した時とは違った。


「ん? 今、何か感じだなぁ」


 成仏したいのだ。できることなら、天国へ行きたいのだ。


「もう一回手を入れて……」

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