死の帳降りて/1
消灯時刻を過ぎた病院の長い廊下。昼間とは打って変わって、月も出ない夜の海ように静まり返っている。
あの別棟――閉鎖病棟へと続く通路。夕霧の紺のスーツは医師としての証である白衣を今は着ていない。これから行くところには無縁というよりは、邪魔になるだけだ。
昼間開けなかった銀の自動ドアの前へとうとうやってきた。不自然なほど、巡回の看護師が通らない廊下。静脈認証のセンサーに手を近づける。
すっとドアは開くが、文明の利器が通用しないような絶望の淵が広がっていた。
中は今いる通路と違って、蛍光灯もダウンライトも何もついていない。唯一の頼りは非常口灯の緑だけ。
何かの境界線でもあるような、手前で黒のビジネスシューズは一度立ち止まる。負けないための対策を、体が勝手に取ってゆく。
――呼吸は常にいつも通り。
外から自分の内側へ入ってくるイメージで、息を吐く。
自分の内側から外へ出てゆくイメージで、息を吸う。
夕霧は知っている。呼吸とは大きな部屋の端から反対側へ往復をするような、非常に効率のよくない動きだと。
だからこそ、それを最小限にする方法。
吸うイメージで吐く。
吐くイメージで吸う。
真逆を組み合わせることで、部屋の真ん中にいながら、両方の壁にたどり着くことが可能になるのだ。
どんな静寂でも、気管を通る空気の擦れる音はもうしない。夕霧は背後に振り向くこともなく、
――気配はひとつもない。
他人を巻き込まないように、誰もいないことを確認して、右足を一歩踏み出す。
別世界であることを表すように、黄色く光る幕が目の前で密かに揺れる。しかし、これはいつものことで、もう片方の足を引き入れた。
すっと自動ドアが閉まると、他の廊下から自分の姿は完全に消え、昔から馴染みのある重さが手に広がった。それは、FN/FNC アサルトライフル。
なぜ自分のそばにこの武器があるのか。なぜ自分が戦えるのか。それはわからない。だが、ある程度の対峙はできる。ただそれだけのことだ。
両脇に並ぶ病室から、ホルター心電図の、
ピ、ピ、ピ……。
という規則正しい電子音が、自分を飲み込む津波のように押し寄せる。壊れた機械のように何度も何度も同じ繰り返し。
雑音として阻害しないと、脳内に染み込み、こびりついて
夕霧は絶対不動で左右されることなく進んでゆく。
――霊力を高める。
目に見える範囲ではなく、宇宙空間へと意識を広げ、さらにその果てまで神経を研ぎすます。自身の立っている場所――天命がより鮮明になった。
突き当たりにある非常口灯は何度新しいものに変えても、何かに呪われているように、すぐに点滅を繰り返すようになる。
今もチラチラと闇を作っては、緑の光のはずなのに、影のように廊下に灯を落とす。
眠り病――眠り続ける
他の空間から切り離されたベッドに横たわる患者――いやもうそう呼べない。動かないのだから肉塊だ。それらが、無感情、無動のはしばみ色の瞳に映る。
その時だった。
ピチャン、ピチャン!
どこからか水が漏れ出ている音が聞こえてきたのは。ここは国の首都。そこにある大きな病院。整備不良など起きない。いやそうではなく、ここには水源がない。
夕霧がライフルを構えることなく、黒のビジネスシューズで慎重に廊下を突き当たりに向かって進み続けていたが、やがて背後に異変を感じた。
――来る。後ろから、左右両方。
深緑の短髪の後ろ一メートルほどのところに、闇から青白い顔がぬうっと浮かび上がってくる。
パキ、パキ、パキ……。
病院という頑丈な廊下や壁のはずなのに、建物が歪むような音が響く。
アサルト ライフルは慣れた感じで、後ろへ構えられる。引き金など必要ない。銃口さえ、標準さえ合っていれば、相手を吹き飛ばすことはできる。
――殺気を消す。
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