死臭の睡魔/3

 仕事帰りのサラリーマンやOLでいっぱいの店内。食器のぶつかる音が入り混じり、金曜日のにぎやかさが広がっていた。


 フライドポテトにマヨネーズをつけながら、知礼が話を切り出した。


「どうしたんですか? 急に呼び出すなんて……」


 さっきまでの元気は消え去って、颯茄は割り箸をテーブルへそっと置く。


「あぁ、ちょっと胸騒ぎがして……」


 人がたくさんいるはずなのに、照明は十分なはずなのに。まわりの音がやけに遠くに聞こえ、薄暗く感じた。


 十年近く、先輩後輩でやってきたふたり。暗号みたいな話が飛び交う。


「いつものあれですか?」

「そうだね、たぶんそう」


 颯茄はおしぼりを落ち着きなく、何度かつまんだ。割り箸の紙袋を手に取って、適当に折り曲げる。


「今日ね、バイト先のお世話になってた先輩が仕事中に倒れたんだよね」


 カシスソーダのグラスをつかもうとしていた小さな手を、知礼は不意に止めて、本当に心配そうな面持ちになった。


「それは大変です。何が原因なんでしょう?」

「それは、聞けなかったんだけど……」


 ビールジョッキについた結露を、颯茄は指で拭う。言葉が出てこない先輩を、知礼はじっと見つめた。


「他に気になることがあるんですか?」

「先輩、その直前にすごく眠いって言ってたんだよね」

「寝不足とかじゃないんですね? 先輩がわざわざ話すってことは……」

「うん。本人が違うって言ってたから……。でもそれって、あまり考えたくないけど……」


 この国の人間なら誰でも知っている症状。にぎやかな店内とは逆に、重苦しく、ふたりの声が重なった。


「――眠り病……」


 トンと割り箸をそろえると、知礼は今度は唐揚げにマヨネーズをつけ出した。


「かもしれないですね」

「やっぱりそう思うか……」


 すっかり泡の消えたビールが、颯茄の喉元に苦味ばかりを残していった。動かしていた手を止めた知礼の、黄色の瞳は深刻だった。


「現代の不治の病。ある日、睡魔に取りかれるように眠り続け、食事をすることもしなくなり、点滴で補給し続けても間に合わなくなり、やがて死ぬ……」

「原因も治療方法も開発が進んでない病気……」


 颯茄があとを引き取った。かかったら最期さいご。死する運命しかない。ネギを取り上げ、知礼は口の中に入れた。


「先輩の両親はそれで亡くなったんですよね?」

「十年前にね。最後は会うこともできなかったけど……」


 十代半ばで、肉親を失う。悲しみの淵に立たされて、あのステンドグラスが美しい聖堂を訪れては、神の畏敬の中で心を鎮めて、前に進むを繰り返してきた日々。


 記憶の端っこで、颯茄は引っかかった。今日見たものと同じものに、過去に出くわしたことを。


「そう言えば、あの時も……」

「何か思い出したんですか?」


 音と光が正常に戻った気がした。颯茄は唐揚げに手を伸ばす。


「もしかしたら、原因が他にあるのかもしれない」

「思い当たることでもあるんですか?」


 マヨネーズをこれでもかというほど塗りたくり、唐揚げを頬張り、颯茄はまろやかという幸せで思わず目を閉じた。すぐに瞳を開けて、表情を曇らせる。


「黒い霧を見たんだよね」

「あぁ、先輩のいつもの霊感ですか?」

「そう」


 颯茄の日常は、スピリチュアル満載なのである。例えばこんな風に。


 バイト先のオフィスがある、ひとつ前の交差点にいつも三十代の男が立っている。時間帯は関係ない。ずっとそこにいる。


 他の通行人は気づかないどころか、すり抜けてゆく。それを見ても、彼女は気にすることなく、あれは地縛霊。と判別するくらいなのだった。


 わさびをちょこんとマグロに乗せて、知礼は割り箸で挟む。


「幽霊じゃなくて、正体不明な方ですね?」


 オフィスでいつも元気なあの女を、まるで飲み込んでしまうかのような黒の渦。


「うん。先輩、その霧で真っ黒だった」

「そうですか。何なんでしょうね? それは」

「ん~?」


 聞かれても答えが出ない。人の姿をしていない。本当の霧で、形は自由自在に変わり、大きさもまちまち。おもむろに割り箸を握りしめて、颯茄は頬杖をつく。


 ダボダボのニットの袖が食べ物につかないように気をつけながら、カシスソーダのストローを、知礼はつかんだ。


「先輩の近くにくると、消えるんでしたよね?」


 不思議現象、怪奇現象が起きているが、いつものことだ。あごに割り箸の端を当てて、颯茄は舟を漕ぐように、体を前後させる。


「んー、それがね、最近ちょっと変わったんだよね」

「どう変わったんですか?」


 さっきは違うが、時々こうなる。


「黒い霧が金の光に包まれるっていうか、打ち消されるっていうか……」

「金の光ですか?」

「そう。どうなってるのかな?」


 幽霊を通り越して、魔法使いみたいな颯茄の話。知礼はつくねの串を指先でつまんだ。


「先輩、相変わらず日常がファンタジーですね」

「紛れもなく現実的ではないね。知礼と違って」


 皮肉でも何でもなく、本当のことだ。颯茄も同じつくねを取り、串から引き抜こうとして、大声を上げ、


「あっ! 現実って言えば……」

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