011 - 020

011 「薄い胎」

 女がゆっくりと腹を撫でた。

 薄い腹は何時まで経っても薄いままで、女が嘗て求めていた音は一向に聞こえては来ない。

 己以外の命の音がしない腹を女はゆっくりと撫でた。

 ふいに女の中から音がした。内側から何かを叩く音がした。

 女は微笑んで、殊更優しく腹を撫でた。

 嘗て求めた音ではない。命の音ではない。

 けれども女の撫でる手に呼応するように答える音に、女は嬉しそうに微笑むと、薄い腹を在りし日の母の姿を真似て優しく撫でた。

 音の主が女の内側で笑ったような気がした。



012 「兄様が私を呼ぶ」

 窓を小突く音がする。

 私を呼んでいる音がする。

 兄様が私の事を呼んでいる。

 辛いのならばもう良いのだと呼んでいる。

 眠れぬのならば落ちてしまおうと呼んでいる。

 こつん、こつん。

 兄様が優しく私を呼ぶ。蹲る私を、眠れぬ私を、優しい兄様が呼んでいる。

 嗚呼、兄様。とても、とても、辛いのです。とても、とても、苦しいのです。

 ふつり、と何かの音がして、私の膜が綻んだ。

 嗚呼、兄様が私を呼んでいる。

 ことりと落ちて、ぽとりと溢した。

 嗚呼、兄様御免なさい。全て貴方のせいにしました。



013 「盲目の果ての声は」

 もう駄目だと、もう無理だと、盲目の果てに言葉を溢した。

 見えぬ目では光を追う事も出来ず、かと言って辺りに影が落ちたと断ずる事も出来ず、焦燥に疲れ果てた私は先を絶つ為に言葉を溢した。

 もう駄目だと、もう無理だと、掠れた声で言葉を溢した。

 けれども焦燥に掠れた声は、果てた声は、音に成らぬ侭。



014 「貴方がそう言った癖に」

 貴方が言ったのよ。人は変わるだなんて。

 貴方が言ったのよ。人は育むだなんて。

 貴方が言ったのよ。人は歩むだなんて。

 貴方が言ったのよ、そんなお伽噺を。

 貴方が言ったの。貴方が言ったから私。

 長い間そう在ったのに、だから私はこう成り果てたのに、貴方は目を塞いで私を見てはくれないのね。



015 「鈴」

 ころころ、ころころと、鈴の音が響いていた。

 ころころ、ころころと、鈴の音が囁いていた。

 ころころ、ころころと、鈴の音が揺れていた。

 ころころ、ころころと。ころころ、ころころと。

 ころころ、ころころ。

 そうして、かしゃん。

 潰れた鈴はもう動くことは無いまま。



016 「私私」

 ふとした瞬間に私がぶれた。

 滲んで二重の私と私が。離れてずれた私が私と。

 ぶれて揺れて、そうやって上手く重なる事が出来なくなった。

 私は私の輪郭をなぞり。私が私の軌跡を辿り。

 ふらふらと互いの境界を漂いながら、けれども交ざる事の出来ないまま、ぶれた私は今日もぶれたまま。

 どちらが私だったのか。どちらも私だったのか。

 ぶれた私と私は揺れながら、応えの隙間を埋められないままでいる。



017 「あの人だけが其処に」

 あぁ、きっと。

 きっとあの人はまた、自分を与えてしまうのだ。

 神よりよほど強欲に。

 神の様に目を細めて。

 自身の象る全ての物を世界に与えてしまうのだ。

 あっさりと天秤の片割れに自身の全てを乗せて、そうして均衡を保ってしまうのだ。 

 あぁ、きっと。

 きっとあの人はまた、自分だけを置いてけぼりにして行ってしまう。



018 「かいこ」

 夢を見ていた。

 風にそよぐ白い布が揺れ踊る夢を。

 宙に舞った白い煙が弧を描く夢を。

 光に透けた白い糸が流れ落ちる夢を。

 夢を見ていた。

 白い布を。白い煙を。白い糸を。

 夢を見ていた。

 白を。白を。白を。

 夢を見ていた。

 夢を見ながら、私は葉を食む。

 もう食むことさえ出来ぬのに。



019 「酷い話ね」

 酷い話ね、と貴方は笑った。

 何処かの悲劇の話だった。

 貴方の右手が欠けた。

 何処かの悪意の話だった。

 貴方の左足が欠けた。

 寂しい誰かの話だった。

 貴方の左手が欠けた。

 虚しい誰かの話だった。

 貴方の右足が欠けた。

 酷い話ね、とひび割れた貴方は笑って、そうして貴方の胴は欠けた。

 酷い話ね。

 


020 「夢を見続ける」

 夢を見るには遠すぎる場所で、私は蹲っていました。

 夢を見るには覚束ない場所で、私は抱え込んでいました。

 夢を夢として手放すには、私は余りにも幼かったのです。

 夢を現として成し遂げるには、私は余りにも年を取り過ぎていたのです。

 私は己の中に到底閉じ込めて置けぬほど暗然たる夢を、今も手だけを伸ばして見続けているのです。

 

 


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