第8話 それはカミナリ


 聡明な執事ルシフィスが、最も恐れていた事態。


 それは、何かといちゃもんを付けられ会談が破談になり、後日、改めて彼ら大貴族に署名を貰うために、我がカピバラ家当主のカピが三顧の礼でもって、屈辱的なお願いをしなければならなくなる事態に、陥ること……ではない。




 「ったく臭い、くさ……」


 悪態つく大魔法使い、領主サザブル伯爵の言葉が不意に萎む。


 カピが、いつの間にか、目の前に立ちはだかり…………。


 何と!


 サザブルの丸っこい鼻を右手でつまんでいたのだ!



 依然、椅子に座ったままだった太った魔法使いは、鼻を持たれ引っ張られることで中腰になり、肉付きの良い顎が上がり、首の余った肉と共に震える。


 「ん、ンガ、がああああい!!!」


 サザブルは、束の間、事態が呑み込めない!

 鼻の穴を完全に塞がれ、息苦しくなり、見る見る顔が真っ赤になる。


 そして、それは苦しさだけではない、怒りに満ちた赤鬼の形相となると同時に「訳の分からない」この今の現状を理解し、カピの腕を思いっきり跳ね除けて。


 「きぃ、きっ! 貴様! 何をする!!!」


 泡を飛ばし、大声で怒鳴り叫ぶ。



 カピはパッと手を離し、怒り狂うサザブルからたおやかに離れる。


 親衛隊の二人の護衛剣士がそろって剣を構えた。

 顔には、驚愕の色、若干その剣先が震えている。


 憤怒の炎泥がたぎる太った魔法使いは、首を曲げ、血走った三白眼で唸る。


 「貴様ぁ……、わしに手をあげるなどと………………ぶっ殺す……」


 カピは、つまんだ指を優雅にヒラヒラさせながら笑顔で澄まし答えた。


 「サザブルさん、何をおっしゃる? 僕は……ただ手助けしたかっただけ。う~ん……言ってみたら、お嬢さんが馬車から降りる時に、紳士が手を差し伸べるようなもの……あなたが、あまりにも臭い! と、匂いに困っておられたので、そっとお鼻を塞いで差し上げたまで」


 ゴゴゴゴゴゴ……。


 巨大な歯車がきしみ、回り舞台が回転し、明らかに風景が、空気が急転した!


 ほんの数分の間、即興舞台に立つ者達の思考が目まぐるしく動く! 交錯する!!




 ルシフィスが、唯一恐れていたのは…………。


 バトル、……デュエル。


 そう、戦闘状態に陥ることだ!


 だがまずは有り得ない……。目と目が合えば喧嘩になる、酔いどれが集まった酒場でもあるまいし……、考えられないストーリーだった。

 こちらから手を出す!? 無い無い! いったいどこの誰が、この紳士淑女の集う話し合いの場で、騎士の決闘の申し出の様に相手の顔に手袋を投げつけるというのだ? 荒唐無稽過ぎて笑ってしまう。

 そのような事態は、まさかのまさかで有り得ない! 想定する必要も無い、決して決して起こり得ない! はず…………だった。


 執事には、主人の行動、……止めることは出来なかった。

 止めようとする、動きでさえも……。


 なぜ? きっとそれは、聖なる者の眩しい歩みだったから。




 差別主義者の大貴族、サザブル伯爵が、半ば自覚無く蔑みの言葉を吐き、今日はもう帰ろう、様子見はこれで切り上げ、することを済ませさっさと帰ろう……そう決めた瞬間だった。


 訳の分からぬことが起きた。


 (ぼーっとした若造が、……だが、…………どこか肝の座った……いや、底なしの鈍感野郎か? とにかく、気に障る生意気なクソガキが! わしに手をあげよった……この偉大なる魔法使いの! わしの顔に!!)


 サザブルが、心の奥であわよくば、と思っていたことは……。


 戦闘事態に流れ込むことだ。


 だがこれは有り得ない……。あの執事が許すわけ無く、所詮、決して向こうに勝ち目のない戦い。圧倒的戦闘力の差、よく頑張って、あの執事が剣士二人とやり合えるぐらいだろう……。奴も十分わかっている、そんな流れになるわけが無い。


 仮に、もし仮に、難癖付けてでも、こっちから手を出したとしても……。

 せいぜい使用人の首を刎ねる程度で、事を済ませ終わるだろう……若い領主に及ぶことは無い。

 フフフ、…………と言うより、前提が間違っている。平和な会談の席で、こっちが先に手を出す? そんな馬鹿な! 気品高く理性ある人間がクソ野蛮めいた真似を出来るはずがない、気が狂った通り魔でもあるまいし。



 だがしかし……。

 幸運の女神がこちらに微笑み、想像をはるかはるかに超える愚かさで、向こうから仕掛けてくれたなら!

 確実に、若造の生殺与奪の権利を得られる!!


 「……そう、……殺しはしない、……命乞いさせ、永遠にわしの隷属となれ」




 サザブル護衛の剣士たちは、首をひねっていた……。


 相棒の剣士以外の、この場にいる誰もが! 思うだろう。

 我々が、愚かな若者がサザブルの目の真ん前でした事を、見過ごしたのは、先ほどのメイドへのいたぶりの後、唐突に起きた出来事で油断したためだと。


 (だが違う! 断じて違う! カウンタースキルは作動中だったのだ!)


 サザブルは見かけによらず、用意周到、狡猾な冒険者だ。

 護衛には、一流の剣士を二人、その上、どちらもカウンタースキルの達人をそろえた。

 それは、複数の攻撃にも対応でき、滅多にない可能性だが……、もしも、どちらかのスキルが不発、外れた場合にも備えた、予備としての二段構えなのだ。


 剣士は、全く不利な状況では無いのに、背に冷や汗をダラリたらした。


 (あのガキは、手を出して……サザブル卿の鼻をひねった……これは、明らかに攻撃だ、普通なら、瞬時に奴の腕をぶった切っている……はず)


 攻撃を受ける、察知することで即座に反応し跳ね返す技、それがカウンタースキルである。


 万能に見えるスキルだが、そのカウンターが効かない攻撃もある。

 それは、ゼロストライク。超超近距離の攻撃、つまり間合いゼロに入られた状態からの一撃。例えば、ストライカーが接近間合いに入ることを許した場合……。


 (しかし! 今回は、そんなんじゃあない!!)


 剣士は首を振り、ふと思う、自分は夢の中にいたのかもしれないと……、目では捉えているのになぜか? なぜか、体が動かない……そんな悪夢、白昼夢。


 (スキルが利かない場合が……後一つあった。もちろん! 絶対有り得ないが…………そ、それは……スキルの及ばない……ほどの……格の違いがある場合……だ)


 分かりやすい例をあげるならば……、それは雷! そう、神の落とすイカヅチが決してカウンターで防げないように、遥か上位存在の攻撃の前では、スキルも無効化され防げない……。


 (しかし、しかしだ! そんなこと有り得ない!!)




 鉛の様に重たくなった部屋の空気の中、ジワリと執事が動き、主人カピの前に移動し始める。


 マジックマスター、サザブルも、椅子から完全に立ち上がり、左右の護衛剣士も、前衛に位置すべく動きつつある。



 ルシフィスは、算盤を弾く。


 相手は、愛用の杖を装備した無慈悲な一流の魔法使いに、手練れの剣士が二人。

 強力な攻撃となる魔法を唱える者を、前衛の盾となる戦士で守る、非常に攻めにくい、向こうにすれば理想の定石的布陣だ。


 執事であり、ハイレベルの冒険家でもある彼は思った。


 (戦闘力として……確かに数値上は、相手チームが少々上回るかもしれない。だが、まあ……自分一人でもなんとかなる…………これが通常のバトルフィールドの闘いなら……楽ではないにしても、なんとかなる)


 今、ルシフィスは、当然、空手であり、レイピアなどの武器を一切帯びていない。

 本音では、万一に備えて装備しておきたかったが、信頼する客人を招いているという建前上、帯剣していると、無礼だと叱責される行為に捉えられ……逆にそこを「突かれる」恐れが大きいと考え諦めた。


 (勝つことは、望み薄いが、自分一人なら……この危機を逃れる自信はある……それなりの代償は払うことになるだろうが)


 ルシフィスは心で笑う、なぜだろうか清々しい気持ちになる。

 絶体絶命の危機に陥っているこの最中に…………、横にカピの気配を感じる。


 (フフフ……分かっている。カピ様の命、いや、無傷のままでここを突破することが、絶対の命題。…………となれば、この命、賭けねばなるまい)


 カピをこの部屋から脱出させ、後はプリンシアたちに託せば、必ずこのピンチは抜けられる。その確信があった。


 (大丈夫。……マックス、あなたの光は消させませんよ)



 今まさに死闘が始まろうかという部屋、重なる重い重圧の気がのしかかる。

 しかし、それを羽毛ほどにも感じぬ者がいた。


 領主アザガーノ侯爵が、沈黙を貫いたまま、興味深そうに銀の眼で観ている。


 執事は、自分の愚かさに少しショックを受けた。

 あまりにもの場の急展開と、あまりにもの敵の平然さ、それらの条件が重なり、彼の聡明さをもってしても、うっかりと見逃していた。


 (ハハハッ、そうだな……これまでの計算は、あくまでサザブルたちとの想定。……あの男、アザガーノが助太刀すると成れば…………当然そうなるだろうが……)


 ルシフィスは正視する。

 独り超然と立ち上がるアザガーノ、忘れてはならない超弩級ファクター、暗黒のヒーローを。


 (己の安い命捨てるだけでは、不十分か…………カピ様を守れない……何か……一瞬でもきっかけが……僅かな、間を生む何かが欲しい!)


 命捨てたルシフィスは、久しぶりに祈った。



 ノックも何も無しに、いきなりドアが弾かれるように開く!


 ドッバーンッ!!


 「女子をなかすたぁ、ふてぃ野郎は! どいつでござる!!」


 侍リュウゾウマルが、飛び込んできた。

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