空洞をもつ私、剣をもたないあなた

トウヤ

1

 トレーシングペーパーのように、うすくて白いカーテンが窓辺に引かれた部屋だった。昼日中だったから、室内には明るい陽の光が差し込んでくる。壁も白く、診察台によく似たベッドも、そのベッドにかぶさるシーツも白いから、その部屋はまるで病室のように見えた。床は砂地の模様が淡くプリントされたリノリウムが張られている。私はこの部屋で、清潔なタオルを体に巻き、素足にペパーミント色のスリッパを履いて立ち尽くしていた。彼がベッドのはしに腰をかけたまま、私に言う。

「寒くない?」

 彼は私へほがらかに笑いかけ、そしてそのふたつの腕を大きく広げ、おいで、という。私はそれを合図に、右足を一歩だけ踏み出す。スリッパに包まれた私のつま先は、期待と歓喜で目で見ても分かるほどに震えている。

 ここに置いてある物は、水槽の分厚いガラスを通して覗いたように、何もかもが透明の色をしていた。細いつるを幹に巻き付けた観葉植物、陽光に透けた茶色い彼の髪、鼻の付け根に残った眼鏡の赤い跡、そういった何もかもが。

 私が足を伸ばして彼の元に辿り着くと、彼は私の肩を抱き、それから乳房と乳房のすき間に指を差し入れ、体に巻いたタオルをそっと剥がした。彼の眼前に私の裸体が広がる。乳首は寒さのせいですでに尖っていたし、腹にはうっすらと鳥肌が立っていた。

 そのとき、たまたまどこか遠くの庭から、芝刈り機のうなる低い音が聞こえた。


 びーーん、ギャリギャリギャリ……。チュインチュイン。


 その音だけが私の日常と、この非日常な場所をつないでいるような気がしている。夢の中で聞く、無遠慮な目覚まし時計の音みたいに。しかしこの非日常を思い知らせるために、生白い彼の手のひらが私の下腹をなで回した。脂肪のせいでしわが寄った私の腹は、そのせいでびくびくと不随意に震える。私は短くため息をもらした。浅ましい期待に満ちた、聞きたくもないため息だった。


 私は、これから彼とセックスをする。

 指を折って回数を数えるのもおっくうになるほど、私は彼と体を重ねている。

 これで、もう何回目になるのだろう?


 彼の名前は「ヨウ」といった。名字は聞いたことがない。それに、ヨウという音にどういう漢字をあてはめるのかも私は知らない。たったひとこと、彼が名乗ったときの音で知っているだけだ。

 彼は「LATTE」という、性的なサービスを含む、女性向けのマッサージ店で働いている。そのお店では、ヨウ以外の従業員をまったく見ない。彼一人で営んでいる店なのか、他にも従業員が働いているのかを、彼に聞いたことはない。

 風俗店で働いているだけあって、彼はとてもきれいな顔をしている。白く整った肌に、高い鼻梁を持っていた。目の大きさはひかえめだが、それが顔全体に濃すぎない印象を出していた。声は心地の良い低さをしていて、長い指は古い木の根っこのように関節が浮き上がっていた。髪は耳を覆うほどのショートヘアに切りそろえられ、毛先がくせのせいで少しだけ上向きに跳ねている。その髪がきれいな稜線を持つ彼の横顔を隠し、私をしょっちゅう残念がらせた。

 他にも彼は、私が持っていない物をたくさん持っていた。きれいに磨かれ、甘皮を残していない美しい手指の爪。骨張った首筋。皮がむけておらず、縦しわのない、うすい唇。私はそのひとつひとつと自分が持つ物を比べては、いいなあと思った。でもきっと、私にあんな風に美しいパーツを与えられたところで、大切に扱える気がしなかった。私のがさつな手入れでは、きっとそれらをすぐにぼろぼろにしてしまうだろう。神様はものを大事にする人にだけ、とっておきの大切な物を贈るのだと思う。

 何度かヨウと体を重ねたあとで、私はこんなことを彼に聞いたことがある。

「そんな見た目をしていたら、多くの人に好かれて困ってしまうのではないでしょうか?」

 私は彼の容姿をほめたたえるためにそう口にしたのだが、ヨウは傷ついたように眉間にしわを寄せ、しかし口角は下げずに答えた。そんなことはないよ、と。

「僕みたいな見た目は、ビジネスの場ではあまり好まれないんだ。なよなよしている、オカマっぽい。そんな風に悪口を言われるよ。――これでも一度、ネクタイを締めてまともに働いたことはあったんだ。誰に言っても信じてもらえないけどね」

 すみません、と私があやまると、彼はいいよと右手を挙げた。

「僕にとってこの仕事は適職なんだ。けっこう長く続けている。こんな僕でも君の役に立てるなら、本当に嬉しいな」

「とんでもない、役に立つなんてものじゃないです……」

 ヨウと交わっているとき、私は全身が震えるほどの喜びに満ちている。それをユーズフルなんて簡単な言葉では片付けられない。たとえそれが金銭で結ばれた関係であっても、日々の生活で消耗し、ささくれだっていく私の心をなだめ、落ち着かせ、癒やすには十分すぎるほどのたしかな存在だった。


 私が初めてLATTEに来たとき、それはどこにでもあるネイルサロンの佇まいをしていた。バスで一本の距離にある、新規開店したネイルサロン。私はそこで、ワンカラー、オフ込、三千九百円のセットメニューを注文したのだ。

 担当したネイリストはもちろん、ヨウだった。男性のネイリストがめずらしい事を言うと、彼はなんでもないことのように私に言った。

「僕に触られるのはいや?」

「いいえ、別に」

「それなら大丈夫かな。ムリはしないでね」

 彼のネイルケアはとても丁寧だった。爪切りでばつんばつんと乱暴に切り落とされた私の爪を悼み、私よりも華奢な指先で私の指を揉んだ。そうすると、爪の根元を覆う甘皮はたちまち柔らかくなり、彼があやつる細いネイルプッシャーの先で簡単に剥がれていった。爪をきれいにしたあとで、私が指定した、ラメの入ったピンク色のジェルを塗っていく。ジェルを含ませた小さな刷毛は、その僅かな量の塗料を、私の爪へうすく均一に乗せていった。

 ヨウは私に施術をしているとき、じっと黙っていた。今までのネイリストはたくさんの事を私にしゃべりかけ、どうにか沈黙を作らないようにしていたが、彼は積極的に沈黙を作ろうとしているように見えた。それも、心地のいい沈黙だ。図書館で味わう静けさが部屋中に満ちているようだった。

 私は、私の指先を手入れするヨウの指先を見た。その指先についた爪は何も塗られていない。しかし、すみずみまで手入れされていることが見て取れた。かすかにしめっていて、冷たい指先。甘皮を切り取り、爪の形をきれいに出して、白く伸びたところのない清潔な爪。彼によって等しく愛情を注がれた十本の指が、私の指の間をせわしなく動き回って働いているところを見るのは、なかなか気分が良いことだった。ジェルネイルを塗ったばかりの爪に硬化用UVライトを照射しながら、私はそんなことを考えていた。

 最後の一本である左手の小指の手入れが終わり、ヨウが爪にそっと息をふきかけた後、私にこんな提案をした。

「メニューには載せていないけど、この店にはスペシャルコースがあるんだ」

 ヨウはそう言って席を立ち、ヨウ自身が座っていた場所の少し後ろにある、カーテンで覆われた一角を指さし、涼しげな目元を私に向けて、私に言った。

「そう悪い思いはさせないと思うよ」、と。


 初めて会ったときから、彼の体からは薬品のにおいがかすかに匂い、それが神経質で潔癖な印象を私に残した。薬品といっても、いったいなんの薬品なのかは私にはわからない。消毒用エタノールのにおいにも似ていたし、うがい薬のようなにおいにも似ていた。昔小学校の理科室で嗅いだようなにおいにも似ていたし、さびれた図書館で嗅いだ、古い書物のにおいにも似ていた。そんなふうに、ヨウからは血のにおいや汗のにおいがまったくしなかった。

 そのために、白くてきれいな部屋にいて、清潔な衣服と匂いに体を包んだ彼の前に立つと、医師と対峙しているような気分になった。

 初めて会った男とセックスをする私は、今思えばどうかしていた。疑りぶかい私にしては大胆だったし、愚かしい行動だったとも思う。

 しかし、私は信じてしまったのだ。ヨウはけして、自前の性器で私を傷つけるようなことはしないだろうと。血管の浮いたグロテスクなペニスを剥き出しにして、私の内臓に触れさせることはしないだろうと。彼がまるで、病室へやってきた医師のようにふるまうせいで、ひたむきに信じてしまったのだ。


 それじゃあ、服をめくりあげてください。


 そんなふうにヨウにうながされ、私は身につけていた白いブラウスをまくりあげる。彼は聴診器の代わりに、自らの手のひらを私の左乳房にあて、その先端のとがりをつまんでくれた。まるで悪い腫瘍の具合でも確かめるみたいに。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る