十七 実験室にて

 一郎が連れて行かれたのは一郎が生まれた部屋、お妃様の実験室でした。

 お妃様が部屋の奥、暖炉の側で豪奢な椅子に腰掛けて待っていました。微笑んでいますが、些か顔色が悪く見えます。


「お妃様!」


 一郎はお妃様の側に駆け寄り跪きました。


「鏡です、帰ってまいりました。ずっとずーっとお会いしとうございました」


 一郎の目から涙が滴りました。侍従長がハンカチを差し出します。一郎は手を振って断り自前のハンカチを出して涙を拭います。


「しばらく会わぬ間に随分涙もろくなったのだな。いや、元々涙脆い鏡であったな。侍従長から、事情は聞いた。転生してから何があった? 話してみよ」


 一郎は話しました。それこそが一郎の望みでした。

 好きなだけラーメンを食べられる人生を送った事、自身でラーメンを作り人にラーメンを食べて貰える喜びを知った事、良い伴侶に巡り合い家庭を作り会社を起こし充実した幸せな人生だった事。


「そのように幸せな人生を送ったのなら、何故、戻って参った? こちらに戻らず成仏すればよかったではないか?」


 一郎は黙りました。グリム童話「白雪姫」の話をしていいものかどうか、迷ったのです。ですが、黙っていようと思いました。小人達の話では、お妃様と白雪姫の仲はとても良いようです。もし、グリムの話をしたら、それが引き金になってお妃様と白雪姫の仲を壊すかもしれません。一郎は話さないと決めました。


「私はお妃様に作られた鏡です。お妃様のおかげであちらの世界で素晴らしい人生を送れました。この御恩を返さずして、どうして成仏できるでしょう。私は恩知らずな人間ではありません。どうか、もう一度、お妃様にお仕えさせてください」

「ふむ、しかし、そなたを召抱えるとなるとラーメン屋として召抱える次第になるが、それは出来ぬ。妾は二度とラーメンを食べぬと決めたからの」


 お妃様はしばらく考えていました。


「一つ試したい事がある」


 お妃様は机の上にあった小箱を開けました。中から銀のスプーンを取り出します。


「これを覚えているか?」

「もちろんでございます。私が咥えていたスプーンです」


 お妃様はスプーンを一郎に差し出しました。


「もし、そなたが、そなたの言うように真実鏡であるなら、このスプーンを咥えたら元の鏡に戻るであろう。そして、二度と人の姿には戻れぬ。二度とラーメンを食べられぬ体になる。そなたを人として召抱えるわけには行かぬが、元の鏡に戻るなら、召抱えようぞ。こちらの世界ではそれが自然じゃからな。どうじゃ? 元の鏡に戻って妾に仕えたいか? むろん、このまま人として、ラーメン屋として市井で暮らす事も出来る。いかが致す?」


 一郎は戸惑いました。自分が鏡に戻るとは思ってもいなかったのです。


(鏡に戻る……? また、一瞬で世界を検索できるようになるのか)


 一郎の脳裏に、世界を検索した感覚が蘇ってきました。


(この世界では人でいるより、鏡になった方がお妃様の役に立てるに違いない)

 

 一郎はお妃様を見上げました。お妃様は顔色が悪く、唇の色がありません。


(お妃様は、もしかしたら、ご病気だろうか? 症状で検索をかけたら病いの原因がわかるかもしれない。そしたらきっと治す方法もわかるに違いない)


 一郎は自分の手を見ました。何万食の美味しいラーメンを作って来た手でした。十分幸せな人生でした。一度は向こうで死んだ身。


(これからはお妃様の為に生きよう)


 一郎は硬く決心しました。


「お妃様のおかげで、人として素晴らしい人生を送れました。この御恩、鏡に戻ってお返ししたいと思います」


 お妃様が大きくうなづいて言いました。


「よくぞ、申した。今一度、そなたを鏡として召抱えようぞ。口を開けよ」


 お妃様はゆっくりと一郎の口にスプーンを入れました。


「おお!」


 侍従長が驚きの声をあげます。

 一郎は奇妙な感覚に包まれました。人としての感覚が全て溶けてなくなって、そして、、、。

 肉体は消えていました。元の、スプーンを咥えた硬い四角い鏡に戻っていたのです。侍従長が鏡が倒れないように支えます。

 鏡は顔色の悪い、それでいて目に強い光をたたえたお妃様の姿を映してたたずんでいました。

 

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