第三部 『母』 第1話
お子様プレートは恥ずかしい。かといって一人前のランチはお腹が苦しい。丁度いい分量を考慮して、単品のナポリタンに決めた。食べそこなった焼きそばに頭が引きずられているのかもしれない。ボサノバというのだろうか、異国のオシャレな音楽が流れる喫茶店には、焼きそばなんて野暮ったいメニューはない。
「そんなんでいいの」
「うん」
お母さんはチキン南蛮ランチとホットコーヒーを注文した。飲み物は、と聞かれて、ソーダを頼んだ。本当はお冷で十分なんだけど、何か頼んでおいた方がいいような気がした。
「ちゃんとしたもの、食べてないんじゃないの」
お母さんの頭の中にも、台所で見た焼きそばの袋が思い浮かんでいるに違いない。
一人で焼きそばを作って食べるのと、母親と喫茶店に行くのとでは、断然、後者の方がいい。いいはずだ。もっとも、僕に決定権なんてないのだけど。
「食べてるよ」
「そう? あんた、体重何キロよ。少し痩せたんじゃない?」
僕が痩せっぽちなのは、小さい頃からずっとじゃないか。
「今日はたまたま……だったけど、普段はもっとちゃんと食べてるよ。お父さんが、だいぶ料理を覚えたから……」
「ふうん」
スマホを片手につぶやいた声には、何の抑揚もなかった。その手の指には薄いピンクのマニキュアが塗ってある。見覚えのない指輪が薬指にはまっていた。
「休日なら家にいるかと思ったけど、まあ、アポなしならすれ違いもしょうがないか。美木正が居ただけで十分だわ」
「お母さん」
「ん?」
「……電話、してきてもいい? 友達と遊ぶ約束があったから……」
店の時計は十二時四十分を指していた。一時からの約束にはとても間に合わない。少しぐらい遅れたって良太郎君はかまわないだろうけど、そもそも食事が済んだところで、お母さんは僕を放してくれるだろうか。
「公衆電話なんて、今どきあるの」
「郵便局の前。ちょっと歩いたところにあるよ」
「これで電話しなさいよ」
お母さんがスマホを差し出した。
「使い方ぐらいわかるでしょ」
虹路君がたまに使わせてくれるから、電話のかけ方はわかる。でも、受け取るのを躊躇したのは、そういう事じゃない。
「ここで電話するの?」
「そうよ。いちいちお店から出るのも面倒でしょう」
押し付けるように渡されたスマホは、僕の手には少し大きかった。
丁寧に、慎重に、良太郎君の家の番号を入力する。きっとまだ家にいるはずだ。沈黙の間にコール音が響く。プツッと繋がったかと思うと、機械の音声が流れた。
『お電話ありがとうございます。大変申し訳ありませんが、おかけになった番号は登録――』
「非通知拒否か」
お母さんがスマホをむしり取って、何やら操作をした。
ほら、と渡された時には、もうコール音が鳴っている。
『はい、舞田です』
良太郎君のお母さんだ。
「あ、もしもし、繋木です。良太郎君、いますか」
『ああ、繋木君。さっきお家に電話をさせたんだけど、気付かなかった?』
「え?」
『悪いけど、今日は良太郎、遊びに行かせられないの。ここのところ成績が落ちているのに、夕方までゲームしに行くっていうんだから、いい加減にしなさいって、町の塾に連れて行くことにしたの。いえ、まだ通わせるかは決めていないけど、見学だけでもしておけば、同学年の子が頑張って勉強しているって、少しは思い知るじゃない』
『電話だれ? ミキ?』
電話の向こうで良太郎君の声がする。
『ごめんなさいね、これからすぐ出かけるから。じゃあね』
『ちょっと、代わってよ。ミキ、ごめんな! 金田にはもう電話しといたから――』
通話が途切れた。一方的に切られた。
「丁度よかったじゃん」
お母さんがスマホをバッグにしまった。
「向こうが先に約束を破ったのなら、こっちが引け目を感じる必要ないしさ」
料理が運ばれてきた。
ナポリタンには小さなサラダがついてきた。メニューにはサラダ付きだと書いていなかったから、予想外だ。レタスや千切りキャベツは好物だけど、トマトは苦手だ。トマトソースやケチャップは平気なのに、生のトマトはどうにも食べる気がしない。きっと青臭い味ともにゃもにゃした食感がダメなんだろう。
苦手だけど、食べる。苦手だから真っ先に食べる。ドレッシングのかかったキャベツを一緒に口に含んで、青臭さと食感を少しでも軽減する。
「野菜を最初に食べるのは、健康にいいんだってね」
お母さんもサラダを片付けていた。チキン南蛮とサラダ、ライス、ポタージュスープ。サラダだけが最初になくなって、次にチキンを一切れずつ、そればかり食べ始めた。
「ああ、これこれ。この味。東京のチキン南蛮って、ニセ物が多いのよねー。食べられるうちに食べておかなきゃ。そうそう、美木正、知ってる? 食べ順ダイエット。食材の食べる順番を変えるだけで、同じものを食べても太りにくくなるんだって。だから食べるもの自体には制限はないの。ま、あんたには必要ないでしょうけど」
肉ばかりが次々とお皿の上から消えていく。
誰が言い出したダイエットだか知らないけど、勿体ない事だ。肉を食べる前にいったんライスの上に乗せたら、甘酢とタルタルソースがお米に絡んでもっと美味しくなるのに。ラーメンとかどうやって食べるんだろう。野菜、チャーシュー、スープと片付けて、最後に麺だけをひたすら啜るなんて、どう考えても美味しくない。
案の定、お母さんは最後に残ったライスを半分だけしか食べなかった。
「美木正、食べる? あんた、それっぽっちじゃ足りないでしょう」
そう言って皿を押しやってきた。わかっちゃいたけど、ナポリタンと白米の相性はあまり良くなかった。焼きそばと白米なら合うのに。
料理が済むと飲み物が出て来た。口の中に残っていた白米と、甘いソーダの相性も、やはり良くない。それにクーラーの利いた場所にずっといたから、氷の冷たさがかえって場違いだ。これはホットコーヒーを頼んでいたお母さんの方が正解だった。
「まだ、良太郎とつるんでるの」
コーヒーをかき回しながら、ぽつりと言った。
「うん」
まだ、ってどういう意味だろう。
「あそこは父親が議員の古株だからねぇ。ちっぽけな田舎の町議なんてたかが知れてるのに、ペコペコする奴らがいるから調子に乗るんだよ。保育園の園長がそんな奴だったね。覚えてる? あんた、あの頃から良太郎に連れ回されてて、しょっちゅう服を汚して、ときどき擦り傷も拵えていたよね。それなのに園長の奴、何も注意をしなかった」
覚えている。注意もされた。服を汚したり、怪我をするような遊びをしてはいけません。そう言われた。
でもね。汚れもしない。怪我もしない。そんな遊びばかりじゃつまらない。そう思ったのは僕自身だ。
「さっきの電話もそうじゃない。一方的に約束を破ってさ」
約束を守れなくなったのは僕も同じだ。守れなくしたのは、お母さんたちだ。
僕の中で、小さな熱がわいてきた。
「良太郎君は、親を頼って威張ったりなんかしないよ」
「そりゃ、本人にそのつもりはないかもしれないよ。だけど生まれ育った環境ってものがあるからね」
「じゃあやっぱり、良太郎君は悪くないよ」
「悪気はなくたって、人に迷惑はかけられるじゃない。強気で、無鉄砲で、声の小さい人間を振り回すのが、当たり前になっちゃってるんだよ。美木正。あんた、いつまでもアイツの子分のままでいいの?」
「子分じゃないよ!」
自分でもびっくりするぐらい、大きな声が出た。周りのテーブルの人たちがこっちを振り向いて、ちらりと一瞥したきり、また元の姿勢に戻っていった。子どもが駄々をこねているとでも思っているのだろうか。それでもいいから、向こうをむいててほしい。
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