『城』 第7話
こちらを向いて帽子の下から現れた顔は、紛れもなく静久先生だった。
「え、あ、あら」
先生は目を丸くして、ばつが悪そうにしている。まるで悪戯が見つかった良太郎君みたいな顔だ。
「繋木君と舞田君、ここで遊んでいたの?」
「うん、先生も?」
「先生が公園で遊ぶわけないでしょ」
「へへへ」
僕らは顔を見合わせて笑った。
学校の外で先生に会うなんて、なんだか奇妙な感覚だ。学校での先生は、なんというか、服装のシルエットがもっとスマートで、活動的な印象だった。今の先生は帽子やスカートのすそが外向きに広がっていて、ゆったりとしている。
つまり――。
「今日の先生、なんか女っぽい!」
「こら、どういう意味?」
良太郎君ってば、ズバリと言うんだもの。
「いつもの先生は女っぽくないの?」
先生は目で睨んでいるけど、口元で笑っている。その唇にちょっとだけ違和感があるのは、もしかして、口紅を塗っていないんじゃないだろうか。
「女だけどさぁ。なんか、いつもより、それっぽい。なあ、ミキ」
至近距離からものすごいパスが来た。
「繋木君、どう思う?」
ゴールキーパーと一対一だ。
えい、思い切ってしまえ。
「いつもそうだけど、今日は、特に……キレイ」
「まあ!」
「わっは、ミキ、ミキ」
なんだかとんでもないシュートを決めてしまったみたいだ。先生の顔がまた帽子に隠れた。僕も隠れたいけど帽子が短い。とりあえず良太郎君の背中に隠れた。
「先生、キレイだってさ」
「もう、もう、二人ともからかって……」
「からかってないよ。本音だよ。な、ミキ」
からかっている口調だよ、それ。
「良かったね、先生!」
「はいはい、ありがとう。お二人さん」
先生は大人の落ち着きを取り戻して、にっこり笑った。キレイだった。
「で、先生。何しに来たの?」
「仕事の息抜き。ここのカフェ、前から気になっていたけど、来たことなかったから」
「日曜なのに、仕事があるんですか」
僕も落ち着きを取り戻した。
「そう、先生は家でもお休みはないの。今日も来週のテストを一生懸命つくっていたの」
「いいじゃん、テストなんか作らなくたって」
「そうはいきません。あなた達の学力を測る大事な大事なテストなんですから、ね。……繋木君はこのところ、全体的に成績が上がっているわね」
その成果は『こどもの城』によるものだ。もっと言えば、おばさんの指導の賜物だ。
『成績が良ければ良いほど、将来の選択肢が広がりますからね。私は違うけど、世の中には学校の成績だけで子どもの価値を決めつける大人が大勢いるんだから。特に学校の先生なんてそんなものよ。ここに来たらまず宿題を済ませる。それから明日の予習をする。それだけで先生の評価はぐっと上がるんだから。年上の子は、下の子の勉強も見てあげてね』
それまで何となくこなしていた問題を、理解したと自信を持てるようになったのは、間違いなくおばさんの発案と、勉強を見てくれた虹路君のおかげだ。
先生はそんな事情は知らないだろう。そもそも、先生は成績だけで子どもを決めつける大人じゃないけれど。
「先生、俺は?」
「舞田君は、もうすこしがんばりましょう、です。算数の答えはあっているんだけど、途中の計算式もちゃんと書きましょうね。それから漢字を書き直す時も、消しゴムでしっかり消しきっていないから、新しく書いたのとごちゃごちゃになるんですよ。ところであなた達、もうすぐお昼だけど、ご飯はどうするの。家に帰るの?」
「俺は……あー、うん。昼は帰るって、親に言ったから」
「僕も同じです」
「そう、残念ね。褒めてくれたお礼に、そこのお店でランチぐらいは奢ってあげようかと思ったけど」
それはたぶん、ほんの冗談だったのだろう。さっきの仕返しに、わざと僕らを残念がらせるために言ったんだと思う。だけど良太郎君は真に受けた。
「それじゃあ、ミキは奢ってもらえば」
「僕が……? だって、僕もお昼は帰るって……」
「お父さんはいないんだろ。大丈夫だって。うちは親が待ってるから帰らなきゃいけないけど、ミキは別にいいじゃん」
「あら、繋木君。家に一人なの」
そうだけど……。
「じゃあ、先生と一緒に食べる?」
僕は戸惑った。確かに、不都合はない。先生も乗り気だし、後でお父さんが知っても文句は言わないだろう。
誰もいない家に帰って一人で焼きそばを作って食べるのと、先生と一緒にカフェのランチをいただくのとでは、断然、後者の方がいい。
「ううん、あ、いいえ。家に帰ります」
先生と二人きりだなんて、絶対ムリだ。
「そう。それじゃあ二人とも、気をつけて帰るんですよ」
「はーい。また明日、先生」
しつこく引き止めないところが、おばさんとの大きな違いだ。これがもし、おばさんだったら……。
静久先生が手を振りながらカフェへ入っていく。僕たちのとの会話で、ほんのちょっとでも先生の気分転換になれたなら、それでいいや。
「それじゃ、ミキ。一時に金田ん家な」
「うん」
同級生の金田君は豊富なゲーム機の持ち主として男子たちから尊敬されている。僕も良太郎君もゲームは持っていない。良太郎君はさんざん親にせがんだけど、買ってもらえなかった。僕は始めからせがまなかった。良太郎君が金田君に約束を取り付けて、遊びに行くから、僕もお相伴にあやかるという図式だ。
ぐうぐうとお腹を鳴らしながら、軽快に自転車を走らせる。今日は夕方までたっぷりと予定がある。だから、こどもの城に行かなくて済む。それを思えば心も軽い。
正直に言って、こどもの城で過ごす時間は、それほど悪いものではない。健太君は僕にもなついてくれるし、虹路君のおかげで宿題もはかどる。里奈ちゃんと祐君とも、ちょっとずつだけど、仲良くなった。四人とも団地住まいで僕だけが離れているから、その部分で壁を感じないこともないけど、彼らの仲間であることは楽しいことだった。
何より、あそこには本がたくさん置いてある。祐君から聞いたところによると、おばさんの夫は隣町で製茶工場を経営しているらしく、田舎の事業者としてはそこそこ羽振りが良いのだそうだ。おばさんはその資金力で児童書や文庫を取り寄せてくれている。最新のものとなると学校の図書室よりも品揃えがいい。僕がお城に通う理由の大半はそこにあるといっても過言ではない。
風が吹いて、田んぼの稲をさわさわと揺らした。稲はよく育っているようだが、よく見ると田んぼのあちこちに、禿げたように稲の欠けているところがある。虫に食べられたのか、病気でうまく育たなかったのか。どちらにせよ、残った稲には立派に育ってほしい。僕の田んぼじゃないけど。
欠けているといえば、おばさんの娘の嶋田さんとは、お城では一切会わない。たまにあそこの家で晩御飯をいただく時に同席することはあるけど、そこでも大した会話はしない。学校で顔を合わせてもお互いに知らんぷりをしている。別に嫌っているわけじゃないけど、わざわざ関わらなくてもいいような、そんな隔たりがあった。一緒に本を読んだり、勉強をしたりする仲間とは違う。僕はお城に招かれる平民で、彼女は王女様。そんな感じだろうか。
他には、時々何かの理由を付けて歌わされたり、おばさんの指揮の下で遊ばされるのは、相変わらず抵抗がある。たぶんそれはずっと変わらない。
総合的に考えて、お城はそれなりに楽しいところだけど、行かずに済むのならそれで良いところだ。
「ただいま」
時計を見れば十二時十分。お腹が減ってしょうがない。洗面所で手を洗っていると、右の中指の皮がちょっぴり破けていた。いつの間に傷つけたのかわからないけど、水にさらしても血が滲まないし、それほど痛くもないから、放っておくことにした。
冷蔵庫を開けて、まずは冷えた麦茶を一杯飲み干す。すっきりしたところで焼きそばの麺とウインナーの袋を取り出す。カップ麺ではなくて、一応は調理をすることが僕なりの矜持だ。火は使うけど包丁は使わない。ウインナーはそのまま焼けば十分。
乾燥機に入れっぱなしだったフライパンを、レンジに置いた。
ガタリ。
玄関から音がした。手を止めて玄関の方を見ると、ドアノブがガタガタと揺れていた。
お父さんはまだ帰って来ないはずだ。誰だろう。学校の友達かな。お父さんのお客さんかな。心当たりはない。誰であっても、無言でドアを開けようとするのは無礼じゃないか。
まさか、泥棒? 空き巣? 留守だと勘違いして、忍びに来た?
日射しが明るいから照明はつけていない。脇の下から冷たい汗がたらたらと流れた。片手にフライパンの柄を握ったまま、目はドアノブに釘付けになる。
ドアノブのガタガタが収まった。するとカチャン、と軽い音がして、ドアノブがぐるりと回転した。
鍵を開けられた!
ドアが開いて、真昼の光が目に飛び込んできた。思わず目蓋を閉じる。薄目を開くと、髪の長い女の人が立っていた。
「あら、いたの」
まるで落とし物でも拾うかのような平たい声。
「お母さん――」
去年の夏、黒い短髪で家を出て行ったお母さんが、ロングの茶髪になって帰ってきた。
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