インサニティ・ワンサイド・ラヴ

会伊 炉綿

人が狂気に落ちるのは、いつだって愛憎だ。君もそうだろ?


 大海原の真ん真ん中にプカリと浮かんでいる研究施設は、人知れず、人知れること叶わず危機に直面していたのだった。

「主任!早く行きましょう、間に合わなくなりますよ!」

「私は良いと言っているだろう。早く行け。間に合わなくなるぞ」

 呑気に気遣いをし合っている暇なぞない、と急かすように、よろけるほどの衝撃が我々を襲った。名も知らぬ研究員がよろけ、機械仕掛けのドアのへりを掴んで支えとした。私も近くのデスクにしがみついた。一見するとオフィスのような部屋だが、全ての家具が固定されているために耐震性は完璧である。

「ここはシェルターになっている!私は大丈夫だからお前は早く行け!」

「……っ、わかりました!どうか、ご無事で!」

 これが数分前のことである。

 巨大生物により攻撃された機密海洋研究施設。私は最後までその施設で後処理をしており、先ほど最後の研究員を逃がした。シェルターとなっている施設の中にいれば、このすぐ後に着弾するであろう放射性物質兵器に対しては間違いなく無傷でいられる。巨大生物は放射性物質により細胞を破壊され、生命活動を停止するであろう。

 複数国家主導の機密の研究が行われていたこの施設では、手抜きの後処理は許されない。たとえそれが人権至上時代に位置する現代に個人の命の危険と天秤にかけたとしても、どちらに針がふれるかなどは明白である。

 私は科学の奴隷であり無神論者だが、あの地球の遺産と言って差し支えない生物の、その死亡瞬間に立ち会えるのが私一人という幸運にここばかりはまだ見ぬ神とやらに感謝していた。事ここに至っては私がやるべきことなどと言うべきものは何もない。ここでしばし待ち、救援が来たら防護服を身に纏い逃れればいいだけである。

「しかし、研究対象に牙を剥かれ崩壊状態とは、皮肉なものだ」

 我々が研究していたのは外でもないこの生物であった。海溝深くで休止状態になっていた推定50mの未知の怪物。なにぶん深海であるので姿形ははっきりせず、それがゆえに難航した研究だったが、今となってはわざわざ目の前に現れてくれた。脅威を認定し、殺害するしかなくなったのが惜しいほどに愛着が湧いている。

 私が大学院から様々な研究施設を転々としてここにたどり着いて、大分長いこと経つ。

「せっかく全てを捧げるに足りる研究だと思ったのに、こんな形で研究の凍結とはな」

 当たり前のことだが、研究する対象がいなくなればこのプロジェクトはおじゃんである。加えてこれは機密研究であり、公開されることはない。プロジェクトリーダーである私にはそれなりの保証がつき、生活に困らなくなるだろうが、いい生活がしたくて研究をしていたのではない。私は、この巨大生物のことを知りたくて研究していたのである。センチメンタリズムに身を落とすつもりはないが、これは半ば恋である。極めて自嘲気味ではあるが。

「恋か……」

 そう思ってみると妙にしっくりきた。私はこの研究に恋をしていたのか。

 その証拠に、他への関心の消滅が挙げられる。

 研究員の名前など全く覚えていない。先ほど、自身に危険が迫る中、わざわざ私を気遣い、呼びにきてくれた研究員の名前ですら頭文字すら浮かびすらしなかった。なんなら顔も思い出せない。

 興味がなかったのは別に他人に限ったことではない。最後に私のヒゲを剃ったのはいつだったか覚えていないし、髪もまた、いつ切ったのか覚えていない。職員がクレームを言うので風呂は仕方なく入っていたが。しかし伸びれば伸びるほどに洗うのが面倒であった。無精を極めるがあまり長い髪の女性がいかにその努力を怠っていないのかを身を以て体験してしまった。間抜けな話だ。もともと身に無精だったのに、この研究に没頭してからと言うもの、さらに毛むくじゃら妖怪味が増していた。そのことがこの私自身ですら自覚できるレベルになっていた。

 ……それほどまでにこの研究は私の性に合っていたのだ。

 こうしている間にも私は心の内で時を精密に刻んでいた。ここからは時計が見えぬ。放射性物質兵器の到着までの逆算をしておき、衝撃へ備えているのだ。寸分の違いなくとまではいかぬが、かなりの精刻さで時を感じることができる我が体内時計によると、もう着弾一分を切っているはずである。いかにシェルターと言えど、ここは海洋に漂う船である。博物館によくある静止した振り子を勢いよく蹴り飛ばした後のように桎梏ないことが裏目に働き、大きく揺れてしまうのは必至だ。船酔い程度で済んだら御の字である。

 私は壁際に設置された椅子に座り、衝撃に備えるためにシートベルトを締め、両肩から腹に向けてコの字を描く重々しい安全バーを下げた。そして80cmガラス越しに巨大生物のことを眺める。安全なところから眺める危険物質ほど研究員を感じさせるものは無い。

 そして気づいた。巨大生物の攻撃によってガラスが割れていることを。間違いなくあそこから放射性物質が漏れ入ってくるだろう。

「……ま、生き残れるわけがないわな」

 まぁいいか。これは諦めではない。冷静な判断による自己の生命活動の分析だ。どことなく晴れた気分で私は、発射時刻から逆算したカウントダウンを開始する。

 十、九、八.

 太古より長らく深海に潜んでいた巨大生物がその細く長くこまかい触手をさわさわとガラスを撫でる。深海に潜んでいた時分は画質の関係で見えなかった吸盤の一つ一つの呼吸じみた脈動まで見ることができた。無数の触手の中央にダンテの神曲の地獄の穴を思わせる口がのぞいていた。整列して艶やかにぎらつく牙が幾重にも奥に連なっている。なんと美しい。

 七、六、五.

 私の身丈の二倍はあろうと思われる黒々とした長く先鋭なる爪を得意げに称えた手がガラスの底から現れた。ゴリリと、削るような音を響かせて壁一面のガラスに巨大生物の掌が置かれた。掌の表面がぬめぬめとしている反面、異形を主張しているかのようなその指の腹の鱗はガラスを削っていた。

 四、三、二、

 巨大生物のずんぐりとした体躯の背から、コウモリのような翼が威嚇するようにぐわりと開いた。深海にいた姿しか認知できなかったため、飛行能力は確認されなかったが、おそらく体の大きさや質量など関係なくこの巨大生物は飛べるのであろう。いや、こんな神のような生物が空を駆ける程度のことがあたわぬ筈がない。

 一。

 事前調査で左右に二つずつあると見られていた魚のような瞳が、カメラ越しではなく実際にしかと私を捕捉していた。人を等しく下等と見下す、なんとも言えない崇高な眼が私だけを見ていてくれた。ハリウッドスターや国民的アイドルと目があって嬉しい、と言った人種の気持ちを微塵たりとも了得しえぬ私であったが、この度だけそれを(僅かであるが)解することができた。ただ、その状況とここでは大きく隔る。この感情を感じさせない荘厳なる瞳孔は、如何な人間の瞳とて匹敵することは敵わない。生物としての格が違うのだから、当然である。

 ……零。

 舟が大きく揺れる。

 私は、嬉しかった。この長年における、いわば我が人生そのものと言って差し支えない研究対象と死を共にできることが。

 この巨大生物亡き後は、いずれにしても私に残されたものなどない。これは私のアイデンティティとなるものであり、私の全てであった。

 思えば私は、この愛すべき旧支配者が死ぬと知ったその時から、どちらにせよ死ぬつもりだった気がしている。いわばこれは心中である。愛するものと死ぬことが至上の愛ならば、研究しか能のない男に、至高の生物との最高の愛と破滅を与えてくれた神に感謝と崇拝を捧げるのが道理か。

「……いあ、いあ、はすたあ……」

 喉から何かが口に溢れる。血であろう。視界がぼやけ、暗くなっていく。失明であろう。肌がピリピリして痛みに変わる。細胞の破壊であろう。

 愛する研究対象と、放射線の効能を感じながら死ねる。なんとも有り難いことなのか。

 このようにして死ねるのは、科学者冥利である。最高の終わりだ。美しい死だ。

 私は世界の宝とともに藻屑となろう。

 ……さらば現世よ。さらば、宝ある世界よ。


                              (終ワリ)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

インサニティ・ワンサイド・ラヴ 会伊 炉綿 @Riisan1229

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ