ただ一度の〝最高の料理〟(中)

 ハジッシピユイ=ルスガ・アコダヴォ・コガトラーサ〔Hrézzipyg=Rzugh Uaztstpgy Cereim Fagasma Kwahdlav Åqdawo Kơgåtrahza〕宮廷料理長。

 大トルバシド卿の爵位・アコダヴォ〔Åqdawo〕とは古シター語で「頭、先頭、頭上(にあるもの)」、つまり「角」を指す。

 彼はもともと帝国イグニブラ議会ウィドルに議席を持つ貴族の一人だったが、1265年に「食の道に専念したい」と言って、長男ザミアラガンに議席を譲った。


 父上、母上、とタミーラクが弾んだ声を上げる。

 いやはや、コガトラーサ家の男子は皆体格に優れ、三人も集まると山が動いているようだ。平均よりやや小柄であろう奥方は、妖精みたいに小さく見えてしまう。


「大トルバシド卿、お久しぶりです」


 躊躇なく、カズスムクはハジッシピユイと額合わせの挨拶を交わした。続けて未開封のフィカを出そうとすると、やんわり止められる。

 彼はタミーラクが持っていた小瓶から、フィカを一粒取った。瞬間、場に異様な緊張が走る。ソムスキッラはカズスムクの腕をぎゅっと握った。


 料理の腕を誇示する挨拶回りにおいて、実力を保証されている宮廷料理長という立場は、ヒエラルキーのトップと言って良い。

 ハジッシピユイは手料理を披露する側ではなく吟味する側であって、彼に持ってきた物を受け取ってもらえるか、口にしてもらえるかは大きな問題だ。

 だが、それだけではない。


 愚かにもここに至って、僕はザミアラガンがカズスムクに冷たい理由に思い当たった。なにせ相手は過去、末弟にカナリアの灰を飲ませているのだ。

 ザドゥヤ貴族は一定以上の実力があれば、請われて料理を指導することがしばしばある。ハジッシピユイも多くの弟子がおり、カズスムクの父もその一人だった。ところが、カナリアの件で師弟関係が解消されてしまったのだ(カズスムク談)。


 それが醜聞ゴシップとしてあまり広まらなかったのは、教育者としてのハジッシピユイは有能とは言い難かったことが幸いしている。彼は自分の高すぎる能力を「普通」「練習のたまもの」ぐらいにしか思っていないので、無理難題を気軽につきつけ、長男と次男を含むあまたの弟子の心をへし折ってきたのだ(タミーラク談)。


「うむ、悪くない。さすがシェニ〔Sheng〕の息子だ」


 父の第一声に、ザミアラガンが一瞬目をむいたのを僕は見逃さなかった。


「アクが取りきれておらんが、茶葉を選べばアクセントに活かせる範囲だ。三ヶ月以上漬けられたものとしては、きちんと食感が残っている。手際としては古臭い出来だが、そのまま深みを追求するか、大胆にアレンジしていくか、考えた方が良いな」

「畏れ入ります」


 講評に返事するカズスムクは、表情こそいつものように取り澄ましていた。が、緊張と弛緩の間から押し寄せる倦怠感に、必死で耐えていることだろう。

 一方のハジッシピユイは、たしなめるように末っ子の肩を抱いた。


「タミラよ、城内といえど一人であっちこっちに行くのはよしなさい。ザミアが見つけてくれたから良かったものの」

「子供扱いしないでください、父上」

「ああ、お前は子供ではない」ハジッシピユイは鷹揚にうなずいた。「貴重な食材だ。その身はお前一人が、軽率に扱って良いものではないのだぞ。わきまえよ」

「……申し訳ありません」


 コガトラーサには、直截を美徳とする家訓でもあるのだろうか?

 タミーラクは外出する時、常にお目付け役を同伴させられている。今日の碧血城では、長兄のザミアラガンがその役を担っていたようだ。


 タミーラクの家族は他に次男ボシバヨウ〔Bosébhjou良き生まれ〕がいるが、彼は陸軍に入って北の国境警備に就いており不在。長女ペリアマーレ〔Peliamáre幸運の女〕は国外に嫁ぎ、三男タンタサリッサ〔Thantazahlézza神の贈り物〕は数年前に亡くなっている。

(※編註……ペリアマーレは彼女の婚家から申し立てがあったため、本書では仮名に変更して記す)


「ところで、ガラテヤのお客人。海老がお好きなら、牡蠣はいかがかね?」


 挨拶が一段落すると、意外にもハジッシピユイは僕に話しかけてきた。


「牡蠣ですか……あまり食べませんが、美味だと思います」

「なら、もっと食べた方が良い。数年前、春の祭礼で贄が足りない不手際があってな。仕方なく人族を仕入れたのだが、実に味が良かった。業者の口を割らせたところ、秘訣は牡蠣だそうだ。ワインとナッツ類もな」


〝口を割らせた〟という不穏な表現が気にかかったが、聞かなかったことにしたい。


「以来、我が家では毎年、牡蠣を食べさせた人族を仕入れておる。タミラに直接与えたかったが、体を壊しては元も子もなし……間接的にでも味が良くなるやもしれん」

「ザドゥヤの方の感覚では、魚介類はたいそう変わった食べ物に見えられると存じますが、そのような効能があるとは不勉強でした」


 茶話会の反応からすれば、彼らには貝なんて気持ちの悪いゲテモノだろう。僕はこっそり息子たちの表情をうかがったが、心情を読み取ることはできなかった。


「お客人は幸運にも、貝を食べられる身の上なのだ。我らの国を訪れるなら、ご自分の味を気にされてみるのもまた、良い思索になるのではないかね?」

「それは僕の国では非常に斬新な観点ですね」


 自分や相手がどんな味かという話題は、ザドゥヤ人にとって一般的か否か……僕は判断に苦しんだ。


「己や妻子がどのような【肉】になるか、常日ごろ考え、気を配ることは生活をより善く律する。何事も美味こそ至福だ。そうだな、例えば贄になる者にとって、何が一番の幸福か分かるかね? 考えを聞かせてもらいたい」

「幸福ですか」


――この人は、タミーラクの前で何を言わせたいんだ?


 考えるより先に、学者としての僕はすぐさま反応していた。


「贄に選ばれた人間は、すなわちその社会において死者に分類されたと考えられます。そしてあなた方ザドゥヤの葬送儀礼は、生者の胃袋を最も良い墓と定める。つまり贄にとっての幸福は、残さず綺麗に食べられてしまうことだ。……でしょうか」

「素晴らしい」


 ハジッシピユイはゆっくりとしたリズムで二、三度拍手する。


「だが惜しいな、お客人。そこにもう一つ、〝美味しく〟と付け加えてもらおう。不味いと思われながら無理に腹へ収められては、不憫なものだよ」

「それはまあ、そう、でしょうね」


 なんだろうこの会話は。何を言わされているのだろう――そう思いながら、僕は視界の隅でタミーラクの様子をうかがった。彼からもらったパイを思い出す。

 ハジッシピユイはため息をついた。


「更に悲惨なのは、食べ損なわれてしまうこと。その状態で生きていくことだ」

「どういう意味でしょう、侯爵閣下」


 贄は料理して供された時点で死んでいるのだから、食べ損なわれて生きるという状態は本来発生しないはずだ。だが問うてから、僕はその意味に気づいて戦慄した。

……これについては少し、彼ハジッシピユイについて語らねばならない。

 マルソイン別邸の図書室には、彼が書いた料理教本と随筆エッセイが置いてあり、そこに出版社が付け加えた経歴が記載されていた。


 ハジッシピユイが生まれて最初に付けられた名前は「ルスガ」だった。

 それが意味する所は「税、責務、義務」「支払うべきもの、為すべきこと」。赤い名前スタンザユニムだ。義務、役目を意味するザドゥヤ語 Rzigjaルシギャ の語源である。

 彼は先代皇帝の皇太子が角の生え変わりニマーハーガンの祝いに食べる子供として、乳児のうちから召し上げられた。これは我が子を差し出した貴族にとって、大変な栄誉である。

 ところが五歳の時、皇太子殿下は生え変わりを待たず病死。彼は家に戻され、長男だったことからコガトラーサの嫡子となった。


「贄に選ばれながら、病や怪我でその役目を降ろされた者はな、食べ損なわれた者、〝食べ残しブロシテム〟〔Brostem〕と陰口で言うのだよ。つまり、私のことだ」


 贄の資格を失った者の〝赤い名前〟はそのまま残して新しい名とつなげる。前の名を使うことはもうないが、贄または贄候補だった事実は消えない。

 だからハジッシピユイの経歴を知らなくとも、ルスガ、と続けられる名前を聞けば、彼がだとザドゥヤ人にはすぐ察しがつく。


 たとえ誰も口をつけなくとも、レストランで一度皿に出した料理は、返されたからといって、他の客に新しく出すことなどできない。

 ザデュイラルでは出された食事を残すことは、大変な無礼だ。そんな社会で〝お前は残飯だ〟と呼ばれるのは、想像するだに恐ろしい。


「そのことでずいぶんと惨めな思いをしてきたが、私も自棄やけになって若いころは荒みきっていたものだよ。やんちゃをしすぎたばかりに、このザマだ」


 ハジッシピユイは笑って自分の仮面を指で叩いた。その火傷は、グレきって乱行をくり返した二十代の彼に、祖父が煮えた油をかけた痕だ。


「しかし、治療のため静養していたおかげで、愛する妻と出会えたわけだが」

「人生は何が起きるか分かりませんわね」


 奥方のジュトロターマは、扇子で口元を隠しながら控えめに笑った。実に仲睦まじい夫婦という様子だが、僕は胃が痛すぎて体が真っ二つに折れそうな気分だ。


「父は初めて会った方には、いつもこの話をするのです」


 ザミアラガンははつらつとした笑顔を僕に向けるが、分かっているなら止めて欲しい。だが、これは明らかに人に話すというていでタミーラクに言い聞かせているのだ。日々、何かとこうやって圧をかけられているのか。

 そこへ更に、「おお、そういえば」とザミアラガンは言葉を重ねた。


「アンデルバリ子爵の妹君は、今年のコーオテーと同じ赤い名前でしたな!」

「えっ」


 僕はその瞬間までは、恐ろしくてカズスムクの方を見れなかった。反射的に彼の表情を確かめると、そこにあるのは氷の彫像ではなく、固形の虚無と奈落だ。

 体温を失ったように感情の起伏が消え、澄んだ隻眼をザミアラガンに向けている。彼という人間の輪郭が、そのまま鋭い刃になったような空気の変化が伝わってきた。

 その傍らで、ソムスキッラは一瞬、はっきりとザミアラガンを睨んだと思う。


 カズスムクの妹については、ウィトヤウィカという名前と、体が弱くて本邸でずっと引きこもっているということしか知らない。僕も特に興味は持ってこなかった。

 だが使われなくなった赤い名前――ルヴィルヒア――が別にあるということは、身内としてはいちいち言及したくないだろう。


 ここで、僕は嫌な事実に気がついてしまった。マルソイン家が前に贄を出したのは七年前、ハーシュサクの息子がそれを引き受けた。

 贄は、各貴族家が三十四年周期で供犠方を引き受け、一人を選ぶ。

 つまり、カズスムクの妹が贄から降ろされたということは――ハーシュサクは姪の身代わりに、我が子を差し出させられたのだ。


「いい加減になさってください、兄上! いくらなんでも無礼です」


 たまりかねたように、タミーラクはザミアラガンの腕を掴んで、カズスムクから少しでも距離を取らせようとした。当の本人は「世間話だ」と悪びれもしない。

 小さな声で友人に謝罪を告げる彼を見るのは、なんともいたたまれない気分だ。僕はこれまで、マルソイン別邸にいるタミーラクの姿しか知らなかった。

 貴族らしからぬ粗野な振る舞いで、いつも元気そうで……贄候補というものは、細かい礼儀作法でうるさく言われないものだろうか、などと思わないでもなかった。だが、あれは彼なりに自由を満喫していたのではなかろうか?


に言い争いをするものではない」


 ハジッシピユイが言うと、ちらほらと残る不穏な気配が急に息を潜めた。彼はこの場で一番権力を握っている人物なのだ、従うほかない。

 しかし、何がめでたい日なのだろうか。

 ザドゥヤ人にとっては重要な祭礼とはいえ、若い人間が五人も死を間近に控えているのだ。言い争いにふさわしい日ではない、という点には僕も賛成するが。


「もう少し秘密にしておこうと思ったが、場が冷えてしまったことだしな。良い報せがあるので、ここで発表してしまおう」

「あら、あなた。わたくしにも内緒にしておきたかったほど、素敵なお話が?」


 侯爵夫人ジュトロターマは、おっとりと首をかしげた。その妻の耳に「びっくりするぞ」とささやく様は、いたずらの計画を打ち明ける子供のようだ。トルバシド侯爵ご夫妻の仲が大変よろしいのは分かったので、僕はもう帰っていいだろうか。

 ハジッシピユイがタミーラクに向き直る。


「実はな、タミラ。先日、陛下からお前を調理する許しを賜ったのだ」

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