※〝ありがとう〟そして〝さよなら〟(前)

■編者より警告■

【この項は人間を解体・調理する詳細な描写を多大に含む】

 出版の際にカットするか否かは何度も議論されたが、イオはこの場面をきっちり説明しておきたかったと考えられ、編者はその意思を汲む判断を下した。

 読者諸氏には覚悟を決めた上で、イオが初めての人肉食を受け容れる様を追っていただきたい。しかし、不愉快であるならば決して無理せず「読まない」という選択肢のことを思い出して欲しい。読むか否か、決めるのはあなただ。



 奉納の後で何を食べたのか、よく思い出せない。僕は贄の解体が始まるまでの数時間を、バカみたいにソファで呆けて過ごした。

 こんなことで大丈夫かと我ながら心配になったが、「始めますよ」とカズスムクに声をかけられた途端、体はばね仕掛けのように勝手に動き出す。

 時刻はようやく朝と呼べる時間帯にさしかかっていた。


 中つ宮ユインデルキャルスは厨房と隣接する建物で、地上部分は解体後の【肉】を安置する冷暗所となっている。施設のメインとなる解体場所は地下にあり、僕はカズスムクらに付いて、螺旋階段を下っていった。ここでも口を塩ですすぎ、口覆いの布をつける。

 皆は長袖長ズボン、厚手の作業服に、上から分厚い革エプロンをかけ、髪がこぼれないようしっかり頭に布を巻いていた。完全に屠殺人の格好だ。


 扉が開くと、消毒剤のような樹脂の香気と音楽が漂ってきた。入口のすぐ手前に大きな火鉢があり、そこで没薬もつやく乳香にゅうこうを焚いているのだ。

 壁にはロウソクを並べる一段のくぼみニッチがあり、そこからも没薬の香りが漂ってきた。左側には大量に積まれた木桶、塩が入った袋の山、道具箱に薬箱、回転式の刃物架け、無骨で大きな作業台などなど。別室には湯を沸かすかまどがある。

 そして中央正面に、薄絹をかけられた遺体が三人分、ぴかぴかの鎖で吊るされていた。首のない裸身が、逆さまの影で紗に透ける。

 奥には一段高いステージがもうけられ、少人数の楽団が登っていた。


「香を体にかけてお入り下さい。心身の穢れを払い、魂を鎮めます」


 とカズスムクに指示され、僕は先を行く皆のやり方を見てならった。火鉢(※大香炉ウコギャリジッシ〔Ukogjargzzi〕)に顔を近づけ、手であおいでたっぷり香りを浴びる。没薬には強い殺菌作用があるから、中つ宮で利用されているのだろう。

 鼻が慣れてくると、香気の底に独特の生臭さがこびりついているのが分かった。昨日今日始まったものではない、長い年月をかけて蓄積された血と脂の地層だ。


「伯爵、いえカズスムク、何のための演奏ですか? これは」

「もちろん、彼ら三人に聴かせるためですよ、イオ」


 意外に思えた返答は、すんなり僕の頭に馴染んだ。焚きしめられた没薬の香気と音楽、つつましく部屋全体を彩る壁画が宗教的な雰囲気を醸し出すためだろう。


「彼らの肉体はまだ食卓に供されず、ユワのみもとへたどりつけていません。この待ち時間は死者がもっとも孤独を感じる時で、遺体の周りを魂がさまよっています。ですので、せめてもの慰めに鎮魂曲を奏でてもらうのです」

「もしかして、儀式から今までずっと?」

「ええ。最初の祭宴が終わるまで、交替しながら付きっきりでお願いしています」


 それだけ楽団を働かせられるのも、貴族の冨貴と言うほかない。


 僕らはまず、吊るされた遺体の前へ集まった。カズスムクらが休憩している間に、使用人の手で血液と体毛は処理されている。

 腹から手を入れるやり方では、血は横隔膜に遮られて胸腔きょうこうに溜まる。それを柄杓ひしゃくですくってから逆さに吊るし、胸や腹、手足を揉んで血抜きするのだ。

 大事にしぼられた血液は固まらないよう、かき混ぜながら桶に溜められ、素早く調理へ回される。酒で割ったり、腸詰め、ソース、スープなど用途は様々だ。


 肉に血液を残すと傷みやすく、しかも臭みが出るので、血抜きは重要な問題だ。完全に出し切るには、心臓を動かしたまま頸動脈を切るのが一番良いと言う。

 特に逆さに吊るしてくびを切れば、そのまま下に血を集められるので合理的だ。だがザドゥヤ人は、その殺し方は贄への辱しめであると嫌っている。

 代わりに、彼らは体内から心臓の大血管を切る方法を採用した。

 ただし、太陽ムーカル小太陽チルムキル〔Tilmukgr〕といった重要な贄は心臓を取り出すため、担い手はいかに余分な血をこぼさないかが、腕の見せ所だ。


 贄は生前、腕・すね・脇・陰毛に至るまで体毛を剃り落としているが、爪だけは残している。これは指先に湯をかけてペンチで剥がし、体毛は火でさっとあぶって仕上げ、やっと薄絹をかけられる状態になるのだ。

 こうして準備された【肉】の前には、白樺の丸太をまるごと削り出し、様々な花柄を彩色された台が一つずつ置かれている。

 専用の首置き台〝スタイロア〟〔Stagruoa〕だ。


 切断され顔料を落としたアジガロの首は、眠るようにまぶたを閉じられて、籠に収められていた。柔らかなクッションにくるまれていて、大事に置かれている。

 中つ宮に入る前、ニフロムを一杯勧められたが、飲んでおいて正解だった。しらふなら、僕は逃げ出していたかもしれない。


 カズスムクは両手で首を捧げ持つと、


みましのいのちをうけとりきイェ・ルコ・アグイエ・ユワ」〔He luq aĝie yva〕


 と唱えて、額合わせの挨拶をした。

 その後ろで、僕ら全員は軽くうつ向いて、しばし黙祷する。この挨拶は直訳すると上記のようになるが、多義的な意味を含むものだ。

 お待たせしました、これからあなたを調理します、よろしくお願いいたします、とか。あるいは幸いあれ、安らぎあれ、暖かなユワの光に包まれますように、とか。

 とにかく食材となった贄へ送る、特別な感謝の言葉だ。僕は色んな人にその意味を訊ねて回ったが、一つのフレーズに翻訳するのは厳しい。

 同じように、他の二人の首にハーシュサクらは挨拶し、その都度僕らも黙祷した。


「では、本日の作業についてご説明しますね」


 カズスムクは遺体に背を向け、事前に打ち合わせた内容をおさらいした。


「大まかな流れは内臓の摘出と皮剥ぎ、手足の解体です。私とハーシュサク叔父上、」「ほいさ」

「クトワンザス叔父上はそれぞれ贄の頭部を処理いたします」「うむ」

「ヴェッタムギーリ叔父上は、息子さんたちとアジガロを」「よし」「はいっ」「はーいっ」

「カッマルキリエ殿はミュトワをそれぞれお願いいたします」「ああ」

「では皆さま、ヘレイム待たせないよう、テキパキ行きましょう。イオは皆の邪魔にならない場所で、見学なさって下さい。吐きたくなったら隅に桶があります」

「ご迷惑はおかけしません」


 贄の体から薄絹をはがすと、作業開始の合図だ。この布は後で焼いて処分される。アジガロの首籠を恭しく持つカズスムクに、僕はおずおずと声をかけた。


「大丈夫ですか?」


 これは髪を剃り、皮を剥ぎ、鼻や眼球を取り除いて、脳を抜き取る。生け贄の一番人間的な部分、「顔」を見ながらの仕事だ、精神的な負担は相当だろう。

 成人している他の二人はまだしも、カズスムクはまだ十七歳だ。


「ご心配なさらず。パーツが多いので細やかな作業になりますが、慎重に臨めば問題ありません。眼や脳は傷みやすいので、しばらく集中しますね」


 僕の見当違いな憂慮に、彼は微笑んで去っていった。本当に難易度だけの問題なのかは定かではないが、今さらと言えば今さらな話だったかもしれない。

 だが、昨夜ソムスキッラと話したことが僕は気にかかっていた。奉納も、これからの解体も、その後の調理も、すべてタミーラクの身に降りかかる出来事だ。

 ずっと身を案じている親友がどうなるのか、自らの手で体験させられるような行為に、彼は責任を持って直面している。その内心は僕には分からなかった。


 内臓の摘出は最も汚れる作業なので、カズスムクらは先に上の階へ進んで首の解体を行う。僕はその場に残って、皆の作業を見学することにした。


「これは強烈だぞ。お前さんはもう一杯、ニフロムを飲んだ方がいい」


 とハーシュサクに勧められ、僕は遠慮なく飲んだ。経験者の言葉には従ったほうが良い。……その判断が正しかったことを、僕はただちに思い知った。


 まずは〝直腸結さつ〟と言って、下半身側の消化菅を外す。恥骨を割って、くり抜くように肛門周辺を切ると、落ちて来た内臓で「ボコン」と腹が膨らんだ。

 上半身側は首が落とされているので、内臓は辛うじて膜にくっつきながら、体内で宙ぶらりんになる。アジガロの切り開かれた胸からは、一部が覗いていた。


「はらわたはとにかく、繊細に扱うんだ。破れたりしたら、目も当てられない」


 使命感を燃えたぎらせ、カッマルキリエは慎重に切り開いていった。奉納時に開けた傷口から鋏を差し入れ、最初に取り除かれるのは生殖器である。

 キリヤガンの御用牧場では、食用男性は去勢して育てられるそうだ。

 その方が肉が柔らかく、性格もおとなしくなるからと。効果的らしいが、ザデュイラルがそれを採用しないのは、文化や信条の違いというものだろう。

 カッマルキリエは腹の中で、臓器同士のつながりや膜などを、小さなナイフで断ち切っていった。奉納の手際次第では、肺や骨が傷ついていることがある。


「二回目にしては上出来だよ」


 と従兄殿が言っていたと、僕は後でカズスムクに伝えた。

「お婆さまのおかげです」と彼は謙遜して微笑んだが、祖母もレディ・フリソッカ以上に厳しい方らしいので、カズスムクは血のにじむ努力をしたに違いない。


 次に腹から出てくるのは、膜に包まれて袋状になった大きな塊だ。白っぽいので白モノと呼ばれる消化器系である。胃袋に十二指腸、大腸に小腸。

 と言っても、どれがどれやら僕にはあまり区別がつかない。白くてプルプルしているのでどの器官かな? と思っていたら、単なる脂身だったりする。


「うわっ! 絡まった!」


 ヒーソサッタの叫びに、兄のフリアガレンが青ざめた。


「バカ、ヒース動かすな! 今外すから持ってろ」

「父さまちょっと助けて!」


 どうやら消化管がこんがらがったらしく、このままでは腸が傷ついてしまう。場に緊張が走り、父のヴェッタムギーリが駆けつけた。


「落ち着きなさい。そーっとだぞ、そーっと……」

「あ、ほどけた!」


 的確な処置により、アジガロの腸は守られたようだ。だが、まだまだ内臓は残っている。白モノの次は赤モノ、循環器系だ。

 背中から引き剥がして取り出された肝臓は、意外と大きい。日々の印象から胃袋が大きいような錯覚があるが、これは体内で最大の臓器である。

 ここで注意すべきは、肝臓についている胆嚢たんのうだ。

 苦い胆汁を作るこの器官はさすがに食用には適さないが、生薬に用いられる。ヴェッタムギーリはこれを袋に包むと、さっと切り離して片づけてしまった。


 メリメリと横隔膜を引っぱると、肺や(残っていれば)心臓が一度に抜ける。白モノに比べると、この摘出作業は格段に早い。それにしても、臭いが凄かった。

 意外だと思われるかもしれないが、きつい悪臭というわけではない。僕はかつて牛や豚の屠畜場とちくじょうを見学したが、排泄物の臭いは厩舎きゅうしゃのほうがひどかった。


 内臓の臭いは牛でも豚でも羊でも、大して差がない。おそらく人間だってそうなのだろうと思うが、生け贄は数日の断食で腸内を空にしているから、もっと薄い。

 排泄物と消化液が混ざった独特の異臭。消化液で分かりづらいなら、胃液を思い浮かべて欲しい。それが、生き物の芯から放出される体温でむわっと立ち上がる。


 これは家畜の臭いであってもなかなか堪える。ましてや、人間のものともなれば。室内を満たす臭気は、僕にはねっとりとした粘土のように感じられた。内臓の温度で部屋がほこほこと温まる中、使用人たちが床に氷をまいて冷却を試みる。

 僕の体は侵入してくる生臭さを追い出そうと痙攣し、何度ももう駄目だと思ったが、最後まで吐かずにいられた。それ以外は、平静を保ったつもりだ。


 取り出された内臓はいったん桶に入れられ、使用人たちが一つ一つ仕分けて洗浄していく。それを終えれば、次の解体工程だ。

 手袋や道具を替えて一息つくと、僕らは吊るされた体を滑車で連れて階段を上った。中つ宮は長くて幅広い階段が、正方形に折れ曲がって上へ続く構造だ。


 階段の両端には楽士のための席があり、演奏はそちらに移動して続けられる。

 作業場は踊り場にあたる部分だ。一つ工程が終わるごとに上へ進み、衛生上、決して前の場所に戻ってはいけない。まるで黄泉帰りの神話だ。

 続いて僕が拝見したのが、皮剥ぎ工程である。


「いいか、皮は破れやすい。焦らず丁寧にを心がけて、根気強くやるんだ」


 ヴェッタムギーリは息子たちに教えながら、無駄のない手さばきで実演して見せた。吊るしたままの外皮に切れ込みを入れ、そこから刃物で皮と肉をつなぐ脂肪の層を切って剥がす、熟練の技だ。スパスパと、実に鮮やかなものである。


「ほらほら! 綺麗にできましたよお客さん!」


 フリアガレンは誇らしげに、主に父親が剥がした人皮を僕の所まで見せに来た。すぐヴェッタムギーリが連れ戻したが、実際良い出来だったらしい。厚みにムラがなく均等で、肉側にもほとんど皮や毛根を削ぎ残したりしていなかったとか。


 儀式の場とすれば浮ついて思えるが、厳粛な行事はすでに終わって、今は〝お祭り騒ぎ〟の段階なので、このぐらいの言動は目こぼしされる。

 何より、人の死体と向き合う中では、時に不謹慎ともとれる言動を取らなくては心を病む――と、後でカズスムクは言っていた。死者への敬意と同様に、生者の精神に配慮することは重要なのだ。


 内臓、頭部、手足の先、それらを取り除いた状態を枝肉と言う。

 ここまでやっても、その肉塊はまだ人であると判別できた。間違っても豚ではない――それがかえって痛々しく、恐ろしかった。

 枝肉を洗浄すると、大仕事も一段落となる。ここからは、枝肉を部位別に分け、骨を抜いたり整形したり、すじを引いたりして精肉作業の前処理だ。


「こういうのをプライマルカットって言ってな、こいつの良し悪しで、肉の調理過程も結構な差ができちまうんだ」


 口調は軽いが、ハーシュサクは真剣そのものの表情だった。これまで、彼に対してやや軽薄な印象を抱いていた僕だが、それをすべて撤回していいほどに。

 三人の枝肉は、フォークォーター、ミドルとサドル、ハインドクォーターの三つに分割された。肋骨や脇腹にナイフを入れ、骨をノコで引き、骨粉を注意深く落とし……気がつけば、僕にはもう死体がただの肉塊にしか見えなくなっていた。


 解体された部位のチェックは、医師であるヴェッタムギーリの仕事だった。幸い、三人の贄にはなんの問題もなく食べられるそうだ。


 豚一頭から取れる食肉部位は、およそ体重の半分だと言う。

 例えばアジガロの体重は167.5コドラだったそうだ。彼はまだ二十代半ばと若く、筋肉は体重の4割以上と推定される。実際、筋肉量は73コドラ弱であった。

 血液は体重のおよそ13分の1、1.5ガットラ〔Gåttora〕。

 骨の重さは体重の5分の1、33.5コドラ。

 それらを差し引いた残り47.5コドラが脂肪と臓器だ。彼らは最大限、その体を無駄にせず食べることを旨としている。


 すべての作業を終えて中つ宮を出ると、カズスムクたちは体を洗い、一杯だけ酒を飲み酌み交わしてから休憩を取った。

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