まばゆい氷の主の家(中)

「失礼いたしました、シグ・カンニバラ」


 若きマルソイン家当主の微笑みは、不可視の圧で場を和ます。


「こちらは私の友人で、トルバシド侯爵家〔eth Åqdawo bes Tơlbasîdr〕四男トルバシド伯爵〔L'm Ý'l Ýseue Tơlbasîd〕こと、タミーラク・ノルジヴ・ケイェム・コガトラーサ〔Tamirrag Nolsiw Kehem Kơgåtrahza〕です」


 仮に儀礼称号だとしても、侯爵家の四男が伯爵位を名乗るとは奇妙に思えた。ガラテヤとザデュイラルの貴族制は異なるので、一緒にしてはいけないのだが。

……これは魔族独特のある身分が理由だが、その詳細はのちほど。


 トルバシド伯あらためタミーラクは、しかめっ面のまま僕に歩み寄った。近くに来られると、彼の背丈がそのまま影になってのしかかる。

 こちらを見るタミーラクの眼差しは、密林に潜む獣に似ていた。少しでも落ち度や油断があれば、飛びかかって喉笛を食いちぎってやろうか、と考えているような。

 角と並ぶ魔族の特徴である犬歯も、こころなしか見せつけられているようで。


 しかし、奇妙なのは〝タミーラク〟だ。

 彼の名前はザドゥヤ語の発音から外れているし、タミーラクといえば、古代ニカイアニケーヤー〔Nikåýyha〕の将軍タミーラク・バニカ〔Banica〕。人類史上最大の魔族による古代帝国・アース〔Asses〕最強の敵である。

 彼はマトカサリオン〔Matkasålion〕の戦いで敗れて、その身を戦勝の宴で大々的に供された。猛将にあやかった名前としてガラテヤでも使われるが、食人鬼側がタミーラクと名付けるのは、どういう意味合いを含むのだろう?

 名前そのものの意味としては、主のT a m i r恵みr a gあたりだが。


「お会いできて光栄です、トルバシド伯」

「……おう」


 僕らはぎこちなく握手を交わした。やたら力強い握り方は、親しみとは別の何かがこもって手が痛む。その後の額合わせも、少しだけタミーラクが早く動いてごつっと音がした。カズスムクらが気がつかない程度には、どちらも些細なものだったが。


「あんたによろしくって言う前に、叔父君。例のアレ済ましちまおう」

「あー、あれね」


 ハーシュサクは手招きして、僕に一人がけソファを勧めた。タミーラクが言う例のアレ、という言葉にどうも嫌な予感がする。

 卓の周囲には同じ一人がけソファが置かれ、僕の真向かいにハーシュサクが、左手側にカズスムクとタミーラクがそれぞれ腰かけた。

 ハーシュサクが「さて」と両手を打ち鳴らす。


「あんたは名目上、マルソイン家が購入した【肉】だ。だが実際に食うわけじゃない、そういう契約になっているが、何事も建前ってのは重要だ」

「建前を整えるものがいる、ということですか?」

「その通り。そこで、だ」


 視界の端では、ニヤニヤ笑うタミーラクと、その脇腹を肘でつつくカズスムクがいた。僕がそれに気を取られた一瞬の間に、卓上に一振りの短剣ナイフが出現している。

 それは角製の鞘と柄で、柄頭にザクロの身が彫られていた。


「こいつはアウクアウック〔Ahhvk〕ってお守りの短剣だ。ザドゥヤの男はみんな大事に身につける。女性もな。オレは使い慣れているから、手元は狂わない」


 カズスムクが帯びている短剣も、これと同じ物らしい。タミーラクの軍刀は少しわけが違うようだが、ハーシュサクが出したのは彼が持っていた短剣だ。


「えっ、船旅の間にこんなもの見ませんでしたよ!? この短剣は、どんないわくを持つ品なんですか?」

「説明しないとダメか?」


「なんだこのクソボケは」と言わんばかりのタミーラクと、無機質に澄んだ眼のカズスムクに見守られ、面倒くさそうなハーシュサクから僕は以下の話を聞き出した。


 アウクとは古シター語で「牙」を意味する二対一組の守護短剣である。

 一つ目は生まれた時、鞘が抜けないよう細工した〝い牙〟。

 二つ目は角が抜けた時、悪霊から保護するための〝宿り牙〟。

 普段使うのは宿り牙のみで、初い牙は生涯大事に仕舞っておき、アウクをくれた親か、自分の配偶者にしか見せてはいけない……


「ほら、こんなもんでいいだろ。本題に入るぞ」


 疲れた顔のハーシュサクは、抜き身のアウクをこちらに転がした。


「味見ってことで、ちょいと一口分かな、あんたの肉を切り取らせてもらう。何なら、自分で切るほうが良いかい?」


 ザドゥヤの貿易商は商談でも進めるように、淡々と、そして軽妙に語る。


「で、マルソイン家の口に合わんかったが、よそへ払い下げるのもしゃくなので労働力として手元に置いておく――その既成事実作りに、傷物になってもらうわけだ」

「ははあ。どのへんの肉ですか?」

「ん~、肩肉かな」


 僕はシャツの袖を肩口までめくった。ハーシュサクが二の腕を指差す。


「ああ、そのへんでいいや」

「そうですか」


 勇敢さは僕とは無縁だ。

 痛いのも怖いのもまっぴらごめんだ。

 だが、そういうものに自分の好奇心を阻まれるのはもっと嫌いだった。


「分かりました」


 僕はアウクを掴むと二の腕に突き刺し、ぐるりと抉って一口分ぐらいの肉を切り出した。肉片を刃先に刺して、腕から外す。ここまで一呼吸もしなかった。


「これぐらいでいいですか?」


 僕は笑えるぐらい汗だくで、かすかに震えていた。三人が動きを止めている中、最初に反応したのはカズスムクだ。


「何をなさっているんですかっ!?」


 思った以上に狼狽した声には、僕が想像していた冷酷さはなかった。呼ばれた小間使いメイドが清潔なタオルを持ってきてくれたので、僕はそれを傷口に押し当てる。


「いや、ですから、味見って」

「その処置は医者の仕事では!? 腕を縛って血を止めて、痛み消しニフロムを飲んで、消毒した刃物で切るものです。我々をどんな野蛮人とお思いですか!?」

「はははははははは!」


 怒りと心配がこんがらがったカズスムクの声を、タミーラクの笑い声がふっとばした。彼は傑作だと言わんばかりにげらげら笑って、腹を抱えんばかりだ。


「すごいなカズー〔Kazưr〕、こいつ、本物のバカだ!」

「それは分かったけど! 叔父上、彼をどれだけ脅したんですか!」

「脅していない脅していない。冗談だったんだけどなー」

「えっ」


 僕がすっとんきょうな声を上げると、三人はぴたっと黙ってこちらを見つめた。ばつが悪そうにハーシュサクが説明する。


「いやあ、味見したいから肉切るよって言ったら、怖気づいて帰るって言い出さないかと思ったんだよなあ」


 はあ、と僕は脱力しながら相槌した。


「あんたは数時間なりとも滞在することになるし、帰るのも自分の意志なんだから、こっちは約束を守ったことになる。大学で出す論文ぐらいのネタはそれなりに取れるだろ、って。う~ん、廊下じゃ緊張でガチガチになっていたってのにな」

「しょうがないじゃないですか! このままでは挨拶より先に、口から質問が飛び出してしまいそうだったんですよ! 必死で我慢してただけです!」


 その時は見かねたハーシュサクに背中をどつかれ、息を整えることで僕は多少なりとも、興奮を鎮めることが出来た。そして図書室に到着し、今に至る。


「叔父上はこの方を侮り過ぎましたね」

「いや、だからってわざわざ自分を刺すかね」


 呆れたように、タミーラクがまた笑った。僕は今になって襲ってきた痛みを堪えながら、言い訳がましく発言した。


「ひと思いにやらないと怖いじゃないですか」

「そりゃ分かるが、あんた最初の一歩が軽すぎだ。味見の結果、中々の美味だから約束を反故にして食っちまえ、なんてことになったかもしれねえのに」

「そこは信用しておくのが前提でしょう」


 ちょうど良い機会なので、僕は自分の考えについて説明しておく。


「あなた方は僕らの国々では魔族と呼ばれ、地獄の悪魔が造ったけだもののように言われています。昔から、僕はずっとそれが疑問でした。本当に獣であれば、今もこうして国家を繁栄させているのはおかしい。僕らは無知と嫌悪感で、目の前が見えなくなっているだけかもしれない。それを確かめるために来たんです、契約ごとは社会の基本ですから、約束は守られると信じるのは当然でしょう」


 それで裏切られたら、僕が愚かだったまでの話だ。

 正直この件については、嫌がらせの範疇にだって入らないだろう。何しろ、いつ殺されたっておかしくもなければ、文句も言えない立場なのだから。


 いずこにせよ、そこが人族の国である限り、人を殺すことも食うことも犯罪だ。けれど、ここは人む魔族の国で、僕はまったく合法的な食用人として存在する。

 僕だって死にたくはない、だが、それ以上に


 このイオ・カンニバラにとって、生きるとは智識を求めることだ。


「それより心配事があるのですが」

「うかがいましょう」


 冷静さを取り戻して、カズスムクは真剣な顔になる。


「味見の件が冗談ということは、もしやこの先二ヶ月、マルソイン家に僕を受け容れる準備が実はないとか……?」

「いえ、ご心配にはおよびません」


 きっぱりとした氷の声音は、僕にはとても爽やかに響いた。


「あなたの意志が固いことは、大変よく理解いたしました。今日は傷の手当てを受けて、ごゆっくりお休みください。私は務めがありますが、明日は茶話さわかいの席をご用意いたします。その時、改めてお話しいたしましょう」


 彼は元から澄んだ心地よい声をしているが、この時はなおのこと、祝福の鐘のように麗しい。彼には一貫して氷像の印象があるのに、こんなにも眩しい氷を、僕は他に知らない。高位の貴族ゆえか、ザドゥヤ人だからか、それともカズスムクだからか。


「あらためて歓迎いたします、シグ・カンニバラ。我らザドゥヤの帝国にようこそ」


 その答えが何かなんて、最初からはっきりしていた。

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