人を騙すは捨身にて
枕木きのこ
人を騙すは捨身にて
「必ず人を騙せるけれど、騙した分、代償を支払わなければならない」
新藤
私は彼がそういった類の冗談を言っているのを見たことがなかったので、ああ、本当なのだろう、とぼんやりと考えていたのをよく覚えています。
私たちは図書室の隅っこの、哲学書や世界文芸などが並んだ棚の窓際、少し埃っぽいコーナーで、やや黄ばんだ青いカーテンに隠れるようにして密会をしていました。
この窓からはグラウンドがよく見えます。野球部がノック練習をしているのが、よく見えるのです。
私たちは同じ男の子が好きでした。正直は男の子でしたが、そういう趣向もあるよね、と彼の告白を聴いたときは口にしました。彼は恥ずかしそうにしていましたが、私の反応に、嫌そうにはしませんでした。
「槙田は本当に大切な、唯一の友人だ」
もちろん、私だってその告白の勇気を想像すれば、へんな顔をできるわけもなく、それでなくても正直は私にとっても唯一の友人でしたから、受け入れる以外の選択肢などなかったのです。
それから私たちは「日陰者」と呼ばれるに相応しい密会を、こうして放課後になるたびに行っていたのです。
それが、その日はなかなか想い人がノックを受けないものですから、世間話が続いていたのです。
「ばあちゃんから聞いたんだ。ひいひいじいちゃんが、ヒノエンマっていう男を騙す妖怪と結婚して、その血が脈々と受け継がれてるんだって」
「ヒノエンマ?」
聞いたことのない妖怪の名前です。
「美しい女なんだけれど、すごく恐ろしいんだ。惚れた男の身を滅ぼす、みたいな話らしいよ」
当事者の正直がそうなのですから、私にその粗筋が飲み込めるわけもありません。ましてや、滅ぶどころか子までこさえたと言うのですから。
「それで、騙すことに特化したの?」
「そう。ばあちゃんが言うにはね」
「漫画みたい」
「ね。結局ばあちゃんもその話をした後すぐにぽっくり死んじゃったから、うそか本当かよくわからない」
正直はその能力を使ったことは一度もない、と言っていました。使おうと思ったことすらないと続けていました。元来、
使えばいいのに、と私は言いました。
使えば、あの人を落とせるじゃないか、と。
「どうやって?」
「その騙す、がどの範囲に効力があるのかわからないけれど、お前は俺のことが好きなんだよ、付き合ってるんだよ、と言ってやればいい。もちろんまだそんな段階には至ってないけれど、絶対に騙せるんだから、あ、そっか、ってなるんじゃない?」
「ああ、なるほど」でも、と正直は言います。「それでいいの?」
提案者に対してそんな疑問を差し挟むことが野暮だと、私は思いました。
私は正直のことが好きです。それは友人としてという感情を超えませんが、彼が幸せになってくれるのなら、そんな素晴らしいことはないと、本当に心の底から思います。こんな言い方をしては彼はきっと怒るけれど、ただでさえ不遇なのだから、持てるものはすべて使ったらいいと、本当に思ったのです。
私の目が真剣だと、向き合っているうちに彼も理解してくれたように思います。
でも、すぐには頷きません。
当たり前です。
代償があるというのだから。
「ばあちゃんが言うには、どれほど大きなうそかに比例するって」
怯えた表情の正直は、私から視線を外すと、うつむいてしまいました。自分の両手をへその前に広げて、目玉が落ちるのを受け取る準備をしているみたいに、一心にそこを見つめています。
「試してみたらいいよ。何も最初から大勝負を決め込む必要はないんだから」
いかにも当然の話でしたが、正直はその両手に、落ちた鱗を受け止めたように思えました。
■
今日は密会を早めに切り上げ、二人で私の家に移動し、しっかりと戸締りをした私の部屋で、向かい合って丸テーブルを囲みます。
こっくりさんとか、タロット占いをするような怪しい空気が部屋中に充満していくのがわかります。
「じゃあ、軽めのものから……」
まず正直は「自分は女である」とうそをつきました。
すると、誠に不思議なのですが、私は
逆に、スカートが捲れて下着が見えてしまっていても、何の感情もありません。
「うそだよ」
——あれ? と思ったのは、彼がそう言ってからでした。
いくら仲良しでも、下着が見えているのは恥ずかしい。そう感じたのです。
本当に不思議な心地でした。これから騙されることはわかっているのに、騙されている間はそれが本当のことにしか思えない。うそだろうな、と思う隙間が全くないのです。
「あ」
スカートを直すために視線を下ろした時に、正直の細い足首から血が滴っているのが見えました。本人は気付いている様子もなかったのですが、確かに、切り傷のようなものができています。
「代償って、本当に、普通に、傷がつくのか」
渡した絆創膏を丁寧に貼りながら、彼は感心したようにつぶやきました。
「でも、わかりやすいね。うその大きさに比例したのかどうかは、よくわからないけれど。だって、性別の誤認だよ? 結構大きなうそだと思うけど」
「もしこんな能力がなくて、実は女なんだ、って言った時に、信憑性が全くないから軽いかと思った。そもそも土台信じられるうそじゃない。だから軽い傷で済んだ、とか。でも普通逆か、信じられないうその方が、代償は大きい? もしかして、槙田は女として接してくれているから、とか?」
真剣に悩み始めた彼を見て、ああ、面白いな、と感じました。私はこの
能力を使えば傷を負う。でも、傷はいずれ癒えるものですから、使えるだけ使えばいいのです。痛みを我慢できれば、絶対に人を騙せる。こんな素晴らしいことはないじゃないですか。そう思ったのです。
この後も私たちは検証を続けました。
たとえば、私の母、「槙田リコは処女である」とうそをついたとき、私は騙されませんでした。この場にいない人間に関するうそがダメなのか、私という存在によって反証されるからダメなのか、が次のテーマになります。
結果は、後者でした。「槙田リコは独身である」といううそについては、父の存在こそあれこの場ですぐに反証はできないため、私はまんまと片親だったわと騙されたのです。代償は吐血。まあまあ大きなうそだったということでしょう。父のことは大好きですから、そのせいかもしれません。
あまりにリスキーであるため、そのほかは軽めのうそで数をこなします。できれば傷ついてほしくないという気持ちは、当然持ち合わせていましたから。
結果わかったことは、「すぐに打破されるうそでは使えない」「代償は巻き込んだ規模による」「うそから代償までは、多少のタイムラグがある」「
つまり、あの人を騙して付き合い続けることは、正直が直接「うそだよ」と言わない限りは、一度の苦痛で実現が可能だということです。
それがわかっただけでも、大した成果です。
私は正直の恋を応援し続けようと決めました。
■
作戦決行当日、正直は朝から緊張の面持ちでした。
特段、私以外に話をするような相手も、いや、お互い様ですが、いないものですから、私たちは例のごとく、図書室での密会まで、そわそわと視線を交えて心の会話を繰り返していました。
放課後、ずいぶんと遅れてやってきた正直をカーテンの中に迎え、野球部の練習が終わるのを待ち、散会となった途端、バタバタと昇降口へ向かいます。
スパイクからローファーに履き替えるために、彼も下駄箱にいました。
「ちょっと話があるんだ」
と言った正直に、不思議そうな顔を向けましたが、仲間たちを先に帰らせ、彼は正直に付き従いました。
私は、ここまでです。
あとの話は、プライベートなのですから、私がこそこそと盗み見ることはタブーです。しかし不安はありません。男の子が好きなのだと私に告げた正直のあの時の勇姿を、私は知っていますし、何より、彼は絶対に騙せるのですから、成就しないわけがないのです。
しかし、話は思った通りには行きませんでした。
一人図書室に戻って、それらしく心理学の本なぞを流し見ていると、救急車のサイレンが聞こえてきたのです。
あ、と思ったのもつかの間、私は走り出しました。
担架に乗った正直は、足が真逆を向いていて、首は左向きから動かないようでした。救急隊の慌てた声と、やじ馬たちの喧騒が、遠くに聞こえました。
その中に、呆然と立つ彼の姿もあります。
結局、正直はそのまま亡くなったのです。
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