第53話 エピローグ 彼女の望む未来を愛する私は望まない
静寂な室内で僅かに聞こえてくる寝息と柔らかな身体を包むように抱きしめる。頬にキスすると、私が離れるのを拒むように細い腕が伸ばされた。静かに笑って指を絡めると、隣に眠る夕貴の頭を優しく撫でる。
夕貴とこうして過ごす様になって、二年。まだ、とも言えるし、もう、とも言えるこの時間。ただ一つだけ変わらないのは、夕貴を愛しい、と思える気持ち。ささやかなすれ違いでお互いを傷つけることもあったけど、この気持ちだけはずっと変わらない。いや、夕貴が話してくれたように、私自身も彼女を求める気持ちがますます大きくなっていた。
目を閉じて、静かに息を吐く。いつか向かい合わなくてはいけないと思っていた出来事を掘り返した為か、鮮明に甦る彼女は、やはり寂しそうに笑ってた。
あの日、テーブルを挟んで向かい合った私に差し出されたのは、良子さんに渡した封筒だった。
『どういう事? 良子さん』
『セイ。ごめんなさい。私、このお金はやっぱり受け取れないわ。借金もあなたに負担してもらったのに、これ以上迷惑はかけれないもの』
『そんな事気にしなくて良いわよ。
私が好きでしていることだし、迷惑なんて思っていないわ。このお金は良子さんの為に使って欲しいの』
俯いて、何かをためらう様な良子さんに、彼女の言葉を待つ。
『それなら…………娘が高校を卒業するまでの間、私への代わりに毎月このお金を渡してもらえないかしら。
私……あの子に苦労ばかりさせていた。たった一人で、我慢させてばかりの夕貴に、お金の苦労まで心配させたくない。あの子には幸せになって欲しいの……!』
愛娘を想い、静かに流す涙にどうすれば良いのか分からなくて、おろおろしながら良子さんの細い背中をそっと撫でる。
『夕貴ちゃん、だっけ? 娘さんの事は私が責任を持つわ。お金なんてどうにでもするから大丈夫。だから、今、良子さんが心配するべきなのは自分の事よ。良子さんだって辛い想いをしていたのは同じでしょう』
『…………』
涙目の良子さんに少しでも笑って欲しくて、まだ、ぎこちない笑みを浮かべる。良子さんに会わなければ、きっと、笑顔なんて浮かべることはなかっただろう。
『ね? だから、安心して。
宝くじが当たったと思えば良いじゃない』
『………ごめんなさい』
『謝らないで、良子さん』
ようやく落ち着いたらしい良子さんに安心すると、思いがけなく彼女との距離が近い事に気づいた。鼓動が跳ね、背中に触れていた手が熱を持つ。このまま抱きしめたら良子さんは拒むだろうか、いや、今なら、きっと大丈夫………
そう思うも、弱った良子さんにつけこむ様な真似はしたくなくて『また、来るね』と立ち上がる。
『!?』
不意に掴まれた手に、息が止まる。細い指は振りほどこうと思えば簡単なのに、私の身体は一ミリたりとも動かせない。
『セイ、…………私と契約して欲しいの』
『契約?』
『私、あなたにはもらってばかりで、何一つ返す事が出来ない。お金も、あなたの気持ちも。だから……』
『だから、私の身体を受け取って欲しい』
『えっ……?』
告げられた言葉の意味が分からずに良子さんを見返す。そんな私を真っ直ぐに見つめた良子さんは真剣な表情を浮かべている。そのまま優しく腕を引かれ、気づけば良子さんが私を抱きしめていた。温かい身体と良子さんの優しい香りに、身体が硬直する。自分の顔が熱を持っているのが分かる。
『ちょっ、ちょっと、良子さん!?
そんな事しなくても約束は守るから!
私、あなたにそんな事をさせるためにお金を渡したつもりじゃない!!』
慌てて身体を離そうとするものの、何故か抱きしめられた腕から抜け出せない。
『ええ、分かってるわ……
私が、あなたの気持ちを傷つけるような真似をしていることも。だけど、これが、私に出来る精一杯。だから……』
ゆっくりと頬に伸ばされた手に、身体が縛られたように動かない。すぐ目の前の良子さんから目が離せない。どくどくと自分の心臓が音をたてている。
そんな私に、良子さんは寂しそうに微笑んだ。
『ごめんなさい、セイ……』
そう言って押し付けられた唇は涙に濡れていて───初めて好きになった人との初めてのキスは、悲しい味がした。
『話せなくて、ごめんね。夕貴』
あの言葉の意味を彼女はどう捉えたのだろう。
夕貴には、確かに事実を伝えた。だけど、契約をどちらが言い出したとは告げていない。こんな形で良子さんを守った私を夕貴は恨むだろうか。
夕貴を愛しているからこそ告げられない、真実。
ただでさえ、私達の関係は複雑なのだ。夕貴と良子さん、別々の女性ながら、母子という関係を夕貴が不安になるのも当然だった。
だからこそ、夕貴が悲しむ姿は見たくないのだ。契約を望んだのが良子さんだと知れば、夕貴は良子さんに嫉妬の感情を向けかねないだろうから。彼女には良子さんに負の感情を向けて欲しくない。『お母さん』としての気持ちと記憶を持っていて欲しかった。
この事だけは私が死ぬまで守っていく。夕貴が傷つくくらいなら、良子さんを恨むくらいなら、伝えなくとも構わない。嫉妬も、愛情も、憎しみも、彼女の感情の全てを受け止めるのは私であって欲しい。
もしも、彼女に殺されるなら、その時、私は喜んで受け入れよう。
『愛してる』
眠る直前に交わしたキスと共に、小さく告げられた言葉を思い返すと、胸が締めつけられるくらいの幸せが込み上げる。
夕貴がくれる幸せも、良子さんへの過去も、真実を告げれない苦しみも、彼女となら、夕貴となら全て抱えて生きていける、そう思えた。
「私も愛してるわ。夕貴」
明るくなった室内で、絡めた指にそっとキスして、夕貴に寄り添うように目を閉じた。
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