第27話 移りゆく心 (2) ~夕貴~
前書き
宝くじのCMを見ると、「もし一等が当たったら……」と想像します。あれも欲しい、これも欲しい、と考えますが、私が今一番欲しい物は「時間」です。あれもしたい、これもしたい、と思うものの、あっという間に過ぎる毎日を送っています。まあ、二番目には「お金」なんですけどね……
◇
結局、夜が明けてもセイは帰ってこなくて、落ち着かないまま朝を迎える。せめて、帰ったときに食べてもらおうと彼女の分の朝食とお弁当をテーブルに置いて学校に向かった。本当は帰ってくるのを部屋で待っていたかったが、セイから学校にはきちんと行くように言われていたからだ。
「おはよー、夕貴」
「おはよう……」
「どうしたの?元気ないね」
「ちょっと寝不足。色々考え事していて」
「大丈夫?」
「うん。ありがと」
京子に寝不足の理由を誤魔化して微笑み返すと、並んで教室に入る。ペンケースの盗聴器は捨てたが、学校にはまだ残っているはずだ。セイが受信側のデータと機械を処理してくれると言っていたので、少しだけ安心して席に着いた。やがて授業が始まり、黒板と机に向かうだけの時間が訪れる。夏休みが近いこともあって、何かと浮わつく教室に活を入れるように、先生が先日の模試の返却と夏期講習の連絡を告げた。一斉に鳴り響くブーイングの嵐の中で、私の心は別の事に囚われていた。
『セイには二ヶ月後って伝えてある』
怖くて聞かない振りをしていた現実はあまりにも残酷で、こんな事ならあの時反対するべきだった。悔やんでも悔やんでもどうすることも出来ない。そもそも、私が彼女に復讐を考えなければ、彼女は死ぬことなんて望まなかったのだろうか。黒板横のカレンダーを見る。二ヶ月後といえば、夏休みが終わる頃だ。二学期が始まる頃には、セイはこの世から消えてしまう……
彼女を失いたくない、それが正直な気持ちだった。憎む気持ちなんてとっくに消えていた。自分を支えてくれた優しさが嬉しくて、このままずっと二人で暮らせたなら、とさえ思っていた。
セイと話さなくてはいけない。きちんとお礼を言って、契約を止めてもらうよう言わなくてはならない。キャンセルは出来ないと言われたが、きっと方法はあるはずだ。
「セイ……」
思わずこぼれた言葉は教室のざわめきの中に紛れていった。
スマホにメッセージが届いていてセイが帰宅したことを知る。一刻も早く会いたくて、授業が終わると、京子に「用事がある」と言って急いで帰宅し、ドアを開けた。
「セイ!」
「お帰り」
何事もなかったかのように、部屋にいるセイは壁に持たれて座り、ぼんやりとしていた。テーブルにはロング缶が二本置いてある。どうやら中身はアルコールらしく、彼女が嗜好品を嗜むのを私は初めて見た。
「…………ただいま」
身体に怪我がないのを安心すると、鞄を置いてセイの隣に座る。少し意外そうに私を見たけど、彼女は何も言わずそのまま座っていた。
「お酒飲むの、珍しいね」
「昔は良く飲んでたの。あまりおいしく思えないけどね」
「そうなの?」
「酔いたい時が多かったから……」
遠い目をしたセイが、缶に口をつける。前を見るセイの視線の先に、母の遺影があった。もしかして、彼女は今まで母を見ていたのではないか、そう気がついて思わず下唇を噛む。
写真の母と無言の対話をしている、そんな様子の彼女が何故か悲しかった。
「セイ、大丈夫だった?」
「ええ、夕貴に近づかないようきちんと約束してもらったし、もう心配要らないわよ」
「違う!そうじゃなくて。いや、それもだけど……」
彼女の前では素直になれない自分が恥ずかしくて、口ごもると、それでもセイは私の言葉を待っていてくれる。
「だから……セイが大丈夫だったか、聞いてるの……」
「私?」
小さく告げた言葉に、驚きを含ませてセイが私を見ているのが分かり、少し考えたような沈黙があって、ふふ、と笑われる。ぼんやりとしたセイの瞳に光が戻ったように思えた。
「ありがとう、心配してくれたんだ」
「…………ううん、私こそ、色々ありがとう」
恥ずかしかったけど、どうしても今までのお礼を伝えたくて、勇気を振り絞った。本当はもっときちんと言いたかったのに、結局上手く伝えきれない。もどかしい思いを抱えたまま、再び沈黙の中で僅かに触れあう服から彼女の温もりがじわりと伝わってくる。
「夕貴」
名前を呼ばれて顔を上げると、セイが私を見ている。先程とは違う優しい眼差しに、胸の奥がちりちりと締め付けられた。やがて、彼女の手が顔に近づいてくるのが分かる。拒否しようと思えば出来るゆっくりした動きに、何故か触れて欲しくて見つめあったままでいると、私の頬にそっと細い指先が触れた。
「大丈夫よ、夕貴」
「?」
言われた言葉の意味が分からなくて、そのままセイに視線で問う。私の表情を見て、困ったように少し眉を下げたセイがそっと頭を撫でてくる。
「セイ……?」
「もう、終わったから。
だから、泣かなくても良いわよ」
「えっ……?」
その時初めて私は自分が泣いている事に気がついた。いつの間にか静かに流れる涙を、彼女は恐怖が去った事への安堵の涙だと思っているらしい。
違う、そう言いたかった。セイに契約の話をしなくてはいけない。だけど、私を包んでくれる温もりが優しすぎて今だけは甘えたかった。こんな事でもないと素直に甘えることなんて出来ないから。セイに自分から抱きつくと、彼女を全身で感じたくてぎゅっと目を閉じる。優しく仄かに香る彼女の薫りと背中に回された手に酷く安心してしまう。
『セイの優しさをあなたへの好意と間違わないことね』
浮かび来る神山さんの言葉に心の中で必死に反論する。
そんな事初めから知っている、分かっているはずなのに……
だけど、こんな風に優しく抱きしめてくれるなら仕方ないじゃない!
私を見守ってくれて、気遣ってくれるなら勘違いしてしまうじゃない!!
『あの子から離れなさい』
嫌だ、この人と離れたくなんかない!!
ずっと一緒にいたい!!!
「…………っ、セイっ!!」
心の中で思っていた言葉が口に出来ずに、結局涙混じりに名前を呼んだ。抱きしめた腕が優しく背中を擦ってくれ、嬉しさと悲しさがごちゃ混ぜになって何も考えたくなかった。もっともっと、強く強く、抱きしめてほしい、苦しくてもこのまま押し潰されても構わないくらい抱きしめてほしかった。
何度も名前を呼んで泣き続ける私を、何も聞かないまま抱きしめてくれる彼女が今はただ悲しかった。
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