心底10442メートル

亜寿

第1話

 彼女は常にそこに座っていた。

 図書室の、貸し出し受付のカウンター席。

 くるくる回るタイプの椅子に腰掛けて、時には純愛小説を、時にはファンタジーを、時には難しそうな哲学の本を、地理の本を、歴史の本を。俺は本に詳しくは無いから、表紙に書いてあるタイトルと、その帯の雰囲気から察することしかできないのだが。彼女はとにかく、二日に一回は本を変えていた。

 目を伏せて、時たま髪を耳にかけながら、重そうな……たしかハードカバーというんだったか、そんな本をスカートの上に寝かせて、肩がこりそうなくらい下を向いて読む。長いまつげが、蝶が羽をぱたぱたするみたいにくっついて、それから離れて。まるでシャッターみたいだ。文字を、ページを記録してるみたいに見えた。

「すみません、貸し出しです」

「……」

 声をかけられるとすぐに栞を差して、慣れた手つきでマウスとバーコードリーダーを扱う。その様は本当に事務的なもので、さっさと本を読みたいという心が表れてるみたいに思えた。だから、彼女は毎日この図書室の同じ席に座って、参考書を開いている『だけ』で何もせずに見つめている俺に何も言わない。目もくれない。気づいているのかすらわからない。新学期が始まってもうすぐ一週間、俺は毎日ここに座っているのに。肘をついて頭を手に預けていると、廊下からパタパタとスリッパの音が聞こえて、俺は参考書をしまった。ショートカットのふんわりした茶髪と、短くつめたスカートのひだがゆれた。

「華音、遅い」

「ごめんごめん」

 大して悪いと思って居なさそうな知人の態度に少しだけ心の中でいらだちながらも、顔には一つも出さないで「ジュース驕りな」と立ち上がって相手の背中を軽くたたく。えー、だのなんだの言いながらもやっぱり気にしていなさそうだ。床に置いたスポーツバッグに参考書を放り投げ、チャックを閉めて右肩に背負う。そうやってそこを立ち去ろうとしたとき、凛とした声が俺の鼓膜を震わせた。

「ねえ、上島君」

 俺の名前を呼ぶ、聞いたことの無い声の主は、カウンターに座っている少女だった。「鞄はこれから、ロッカーに入れてくれないかしら」珍しく本から顔を上げて、目をこちらに向けてはきはきとしゃべる。クラスに一人はいる目立たない女みたいに、下を向いてぼそぼそしゃべるタイプだと思っていたから驚いた。

「今日は史書の先生がいらっしゃらないから構わないけれど、明日は来るといっていたから気をつけて。最悪没収されるわよ。あなたは携帯電話をいじっていないから、大丈夫だと思うけれど」

「……」

 少しだけ釣り目がちの目と、それを縁取る長く濃い睫。正面から見ると、その瞳の黒さに吸い込まれそうになる。それでも、俺はその美しさに目が離せなかった。隣にいる彼女も同じ気持ちなのか知れないが、何も言わずにぽかんとしていた。

「気をつけて」

 付け足すようにそう言って、彼女はまた本を読み始めた。そうして、俺が返事をしていないことに気づいた。「……あ、ああ。気をつける」しかし彼女はもう顔を上げることが無かった。図書室を出た俺に華音(女の名前だ)は少し興奮気味で話しかける。

「すごーい。わたしあの人の声初めて聞いた」

「あの人って、あのカウンターの人?」

 そうそう黒澤さん。かわいいよね。美人さんだし。

「女の子にも、なかなかしゃべりかけてこないんだよ。こっちから話しかけてもあんまり話してくれないし。っていうか、名前覚えられてるじゃん、すごいね!」

「え、それはねえよ。名札見たんじゃねえの?」

「ばっかだなあ柾はぁ。その距離で名前見えるわけ無いじゃん。黒澤さん、授業中は眼鏡してるし」

 なれなれしく名前を呼び捨てにしてくるその彼女面に少しいらだったが、『黒澤さん』の眼鏡姿を想像して怒りを静める。ふちの太い眼鏡もいいが、彼女のことだから銀縁の古典的なそれも、似合うのだろう。

「あ、眼鏡姿考えてるでしょ!」

「美人っていいよなあ」

「ほんと? ありがと」

「お前のことじゃねえよ」

 面倒だな、とへらへら笑ってごまかし、自転車置き場近くの自販機で炭酸飲料を奢らせた。教師の愚痴を聞いたり、くだらないことについて真剣に討論したり、誰と誰が付き合っている話をしたり、誰と誰が別れたって話をしたり。とにかく非生産的にもほどがある会話をする。そうして一日は終わって、また次の一日が始まる。家に帰ってもこの会話は仮想空間を通して続けられる。くだらない、と冷めた自分がいるのにやめられないのは、現代社会が悪いのではなく俺が悪いのだとは理解しているつもりなのに。

 それなのに、それでも、俺はやめられなかった。

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