粘着

エムエフ

粘着

 彼女が何故なぜそんな出来事を覚えていたのか、正直そんなことはどうでもよかった。

 でも彼女はその出来事にとても固執こしつしていた。どうしてもその出来事に決着をつけたいのだろう。

 僕はといえば、昨日買ったばかりの高級ブランドのかばんに傷がついていないか、それがとても気になっていた。さっき急いでここへ来る途中、どこかにぶつけてしまったのだ。一通り鞄を入念に調べたが、幸い傷は見当たらなかった。

「なにしてるの? 私の話し聞いてる?」と彼女は言った。

 彼女はみょうにしなやかな手をテーブルのうえで上品に組んでいる。既に運ばれてきていた紅茶にはまだ一度も手をつけていなかった。

 僕は「聞いてる」と言って、鞄を隣の席に丁寧ていねいに置いた。

「なんであんなことしたの?」と彼女はいた。

「別に深い意味はないよ。ただ、そんな気分だったんだ。君があんなに怒るとは思ってなかったんだよ」

「怒るわよ。当たり前じゃない。あの頃、あなたは私をずっと馬鹿にしてたんでしょ」

「そんなことないよ」と否定したあと直ぐに「悪かったよ」と僕は紳士的に謝罪した。

「そんな簡単な問題じゃないわ。謝って許されることと許されないことがあるの。あれは許されないことなのよ」

 僕はだんだん気分がいでいく感覚をじんわりと味わっていた。

 確かによく考えれば、簡単に許されることじゃなかったのかもしれない。でも、もうあれから六年の歳月が流れているんだ。六年と言えば中学に入学した生徒が高校を卒業してしまうほどの時間だ。彼女はその六年間ずっとそのことにこだわり続けていたのだろうか? もしそうならそれは彼女に何か問題があるんじゃないのか。僕にはそう思えてならなかった。

 僕は、「今夜、友達と会う約束があるんだ」と一方的に見切りをつけ、自分のコーヒー代をテーブルに置き店を出た。幸い彼女は追って来なかった。

 約束の時間に遅れそうだったので、僕は久しぶりにタクシーを拾った。

 運転手に行き先を告げ一息ついたところでガラケーが鳴った。(僕はいまでもガラケーを使っている。僕はスマホがあまり好きじゃないんだ)相手はさっきの彼女からだった。

「あなた、逃げるつもり?」と、妙に落ち着いた彼女の低い声が耳にへばりついた。

「悪いけど、僕はその件に関してもうなにも言うつもりはないんだ。君には悪いことをしたといまは思ってる、でも六年もの間ずっとそのことを気にかけてるなんておかしいよ。君、どこか心を患ってない? こんなことは言いたくないんだけど」

「なによ、私の頭がおかしいってこと?  よくもそんなことが言えるわね。あなたって最低ね。いつも自分勝手で私のことなんて一度だって真剣に考えてくれたことなんてなかったじゃない。それにあの時だって──」

 僕は電話を切った。

 悪いけどこれ以上もう彼女には関わりたくなかった。それにさっきから少し頭痛がしていて話すのが億劫おっくうになってきてたんだ。

 ふと、パトカーのサイレンが聞こえた。かなり大きな音だ。僕は即座に窓の外を見回した。でもパトカーは見当たらなかった。たぶん僕の気のせいだったんだろう。

 また電話が鳴るといけないので、僕はガラケーをマナーモードにした。そうだ、始めからマナーモードにしておくべきだった。僕はこの手のミスをよくするんだ。

 途端、ガラケーが振動し始めた。見るとまたあの彼女からだった。僕はそれを無視することにした。

 ゆったりと走る車の窓から外を眺めると、そこには夜の街のネオンがきらびやかに、ぬらぬらと後方に流れていた。

 と、その風景の中に見覚えのある女を見つけた。女と目が合った。

 まさか……。いや、いまのはあの彼女だ。間違いない。どうしてあんなところに彼女が……。

 僕は混乱した。

 彼女はスマホを耳にあてこちらをにらんでいた。

 彼女の瞳は、まるで時空を貫くかのごとく鋭い眼力で、戸惑う僕の瞳を的確にとらえていた。

 ガクン、とクルマが大きく揺れた。

 続いて、静かだったガラケーが突然振動した。着信だ。

 僕は相手を確かめることなく、あやしげに唸り続けているそれを鞄の奥に仕舞い込んだ。

「えっ……」

 つかまれた。

 鞄に入れた僕の手を、しなやかな手が力強く掴んだ。

 

 僕は絶叫した。

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粘着 エムエフ @netmacmn

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