29.後輩の独白2
それは、静かな空間だった。
音がないというわけではない。使われていなさそうな教室には黒板の前にスクリーンが下げられていて、画質の悪い映画が流れている。そのほかには本当に何もなくて、余計な雑多な煩い雰囲気は全く感じない。
その映画は俺の家にあるどんな高画質のテレビよりも随分と粗い画質で、とても見辛そうだった。しかし、投影されているものは見たことのないものでひどく興味をそそられた。実写じゃなくてアニメと呼ばれているやつ。絵が動いているそれを、実際に目にするのは初めてだ。そんなものがあることは知っていて、学校でそう言った話題で盛り上がっているのを見かけたことはある。でも常日頃母親からは、そういったものは教育上良く無いものだと禁止されていた。一度も見たこともない俺からしたら、その面白さを味わったことがないから禁止されたってどうとも思わず、親の目を盗んで見てみようと思うこともなかった。
だけどそれは、そんな今までの自分を後悔するほど面白いものだった。アニメという見たこともない表現方法もあるが、内容が何よりも。心をぐらりと揺り動かされるような劇的なシーン。現実じゃ味わえない出来事。今まで見ることを許されてきた、教育上良いらしいジャンルとは程遠い世界。この見辛いスクリーンから目が離せない。
蜜に誘われる蜂のように、自然とその教室へ入ってしまう。1番見やすい位置を探して、そこで初めて俺は中に人が居たことに気がつく。うつらうつらと船を漕いでいるその人の邪魔をしないように、静かに隣に座った。その人が一体誰なのか、そんな疑問よりも目の前の映像の続きが気になる。そうして映画に見入っていると、隣でガタっと音がして彼はこちらをギョッとした目で見つめていた。
それが、先輩との出会いだった。
先輩が作ったらしいこの同好会に入れてくれないと言った時は意地悪な人だと思ったけれど、でも俺は何よりその空間が好きだった。人がいるのに音がなっているのにとても静か。そんな環境は初めてで、今まで過ごしたどんな場所よりも穏やかな居場所。
それに先輩の持ってくる映画は俺が今まで触れたことのないもので、とても楽しい。こんなにも心がわくわくするのは久しぶりだった。次はどんなものを持ってきてくれるのだろう。そんなことを思いながら帰って、明日を楽しみに思って眠りにつく。そのうち、好きなものとそうでも無いものが出てきて、俺にも好みというやつがあるんだと分かった。過激なアクションものも意外と面白い。涙もののハートフルストーリーは、心情を揺さぶられる感覚がすごく好き。推理ものは、先が読めてしまって中々楽しめない。自分の中でいろんな物語が増えていく。多種多様の人によって違う考え方とか、知る必要もないけど知って居た方が面白いこととか。一定の彩度で塗られていたキャンバスが、綺麗な色も汚い色も混ざってどんどん塗られて色に深みが増していくような。そんな感覚。
先輩は不思議な人だ。ぶっきらぼうだけれど優しい人。だから嫌いじゃない。最初の方はそれくらいに思っていて。でも一緒に過ごしていくうちに分かっていく。
先輩は俺よりもすごい人。普段はそんな素振り見せないけど、本気を出したら誰よりもきっとすごい。先輩は物語の主人公のような人だと思う。そう、それこそヒーローみたいな。少なくとも俺にとってはそうだった。俺の中の世界を劇的に変えてくれた人。俺の知らないことをたくさん知っていて、同じ世界にいるのに先輩には俺よりもずっともっといろんなものが見えている気がした。
俺は自分が尊敬できるような人には初めて出会ったから戸惑った。だからこそ思う。もっと知りたい、仲良くなりたいと。
だけど先輩は俺との距離を一定に保とうとしていた。そもそも名前すら教えてくれないし、クラスも家族関係もあんまり話したがらない。プライベートなことを聞かれたくないのだろうと思って、連絡先も教えてくれとは言えないでいた。
本当はもっと話がしたいのに。休日とかも一緒に遊びに行ったりしたかった。いつもなら、やりたいと思ったら無理を言ってでもお願いするところ。でもなんとなく、嫌われるのが嫌で。先輩の方から遊びに行こうと誘ってくれた時は本当に飛び上がりそうなくらい嬉しかったのだ。
いつの間にか、先輩からの言葉を待っている。もっと距離を開けられてしまうのが怖くて、いつからか一歩を踏みだせなくなっていた。
分かっていた。
先輩が嘘をついていることも。
聞かれたくない話になると誤魔化してしまうことも。
本当は先輩が不良に殴られたんじゃないってことも。
本当は、俺の財布を偶然拾ったわけじゃないってことも。
嘘だらけ。近寄れない。
この距離でもそれなりに幸せだ。このままの関係が続けばそれでいいと思ったこともあった。
でも、先輩の顔を見る度に俺は苦しくなる。傷ついた頰じゃない。時折、俺を縋るように見てくる瞳が。不安の一杯にこもった瞳で俺をじっと見ていることがある。
あの時もそうだった。先輩が同級生の神白と兄弟だと知った時。弟に腕を引っ張られるようにして帰っていくその時。その目に見つめられるとたまらなく苦しくなって、救い出してあげたくなる。先輩が何を抱えているのかわからない。だけど、先輩を守りたかった。彼を苦しめる何かから。
俺が救い出してあげられたら。
先輩が手を伸ばせるような存在に、俺がなってあげられたら。
きっと、今日は来てくれる。
そんなこと分かっていた。這いつくばってでもくるだろう。先輩はそういう人だ。約束は絶対守る。
でも、まさかこんなにもぼろぼろの姿でやってくるだなんて。振り返った俺の顔を、先輩はまたあの瞳で俺を見つめた。助けを求めている。でも自分でもきっと分かっていないのだ。自分が誰かに助けてもらいたがっているなんてこと。声を出せず堪えてそこに立ち尽くしたまま、自然と痛みが過ぎ去るのを待っている。
我慢ならなかったのは俺の方。
痛々しいその姿を見ていられなくて、無理やり抱きしめた。
細くて折れてしまいそうなほど弱々しい身体。耳元で聞こえる押し殺した泣き声。涙をこぼす先輩なんて初めてだった。胸が熱くなって抱きしめる力を強める。彼を苦しめる何もかもから守ってあげたい。地の底に沈むその身体を救い出してあげたい。
もうこんな距離でも満足なんて言ってられない。助けるために一歩踏み込む。もうこれ以上、1人で痛みに耐えることがないように。
教えてほしい。先輩のことを。こんなにも時間がかかってしまったけれど。先ずは名前から。
そして知ってほしいんだ俺のことも。
「俺の名前は塚本正人です。晴吾先輩」
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