3.弟


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すっかり暗くなってしまった道を一人歩いて帰っている俺は気分がなんとなく良かった。特に彼のことを気に入ったとかではない。でも久しぶりに友人とするような軽い会話ができた気がする。それが嬉しいのかも。だとしたら俺はやっぱり寂しかったのかもしれない。



合鍵を回して家に入る。チャイムは鳴らさない。冷たい目で迎えられるくらいなら気づかれない方がマシだ。リビングから楽しげな笑い声が聞こえる。俺はそっちをわざと見ないようにして自分の部屋へさっさと上がった。自分が傷つかないために見たくないものは見ない。これもまた、ここ最近で学んだ生き方。

自分の部屋は安全だ。バックをそっと置いてベッドに座り込む。まだみんなご飯を食べているから、俺は先に風呂に入ってしまおう。それからご飯を一人で食べて。繰り返されるはずの俺の日常に柔らかい布団の中でホッと息をつく。



しかし、その日はいつもと違った。

コンコンとノックの音。

俺の部屋に人が訪れることなんて殆どない。なんとなく嫌な予感がしたが、返事をする前に勝手にガチャリと扉は開いてしまった。一番見たくない顔。だけど今のこの家ではこいつが一番俺に話しかけてくる。嫌な顔を表に出さないように慎重に無表情を保った。彼は入ってくるなり俺の横に遠慮もなしに座ってくる。


「あームカつく!ほんっとムカつく」


まさか愚痴をこぼしにこの部屋にやってきたのか。これ、俺がわざわざ何があったか聞いてやらないといけないのかよ。そういうのはお前のことが大好きな父さん、母さんに言ってくれ。


「…なんだよ」


「ちょっとやめてよ。その面倒そうな顔。弟のことが心配じゃないの?」


んなわけあるか。俺よりよっぽど順風満帆な人生だろ。


「悪かったよ。疲れてんだ。…で、何があったんだよ」


「ムカつく奴がいるの!学年代表に選ばれた奴なんだけどスッゲー態度が悪くてさ。俺が今日サッカー部に見学に行こうって誘っても即答で断るし。ちょっと頭がいいからって調子乗ってんなよな」


聞いてやれば彼の不満は爆発したように止まらなくなる。そこまで言わなくてもって思ってしまうくらいに口が悪いから、聞いているこっちも気分がいいものではない。昔からこいつは自分の気に入らないものは徹底的に責める癖があった。自分が正しいと思って間違いないと、自論を暴力的にぶつけてくる。


「そんなにムカつくなら放っておけばいいだろ。そいつも悪気があってそういう態度とってるわけじゃないかもしれないし」


俺はぼんやりと今日あった1年の塚原君を思い出していた。あいつもきっとこういう風に誤解されるタイプだろうなぁと。

弟の言葉を遮るように言った言葉で、彼はピタリと口を閉ざした。そしてまじまじとこちらを見てくる。なんだかゾッとした。何を考えているのかわからない双眸が俺の心の中を探るように見てくる。…ここは反論するべきじゃなかったか。


「ねえ兄さん、あれ何?」


俺の心配は杞憂だったようで、彼は俺ではなく俺のバックを見ていたらしい。指差した先には、空いたバックと中からDVDのケースがのぞいていた。勿論こいつに映画同好会の話なんてしていない。映画を見る趣味があるなんてことも。なんでそんなものがスクールバックに入っているのかを聞きたいのだろう。


「あ…ああ帰りにちょっと借りてきて…」


言葉の途中で彼は立ち上がってそのケースに手を伸ばした。なんともないその行動。なぜか嫌な感じがする。自分のものを彼に触られるのは嫌だ。


「兄さん映画なんてどこで見るのさ」


「は?」


「だって兄さんリビングに極力いないようにしてるでしょ。でもテレビがあるのリビングだし」


しまった。言われてみればそうだ。


「誰かの家?友達?だれ?」


にこにこする奴のセリフには覚えがあった。この質問は嫌いだ。これに答えたら、「取られてしまう」。


「…どうでもいいだろ。暇があったら家で見るんだよ」


「ふーん」


手の中にあるDVDをひっくり返したりして観察している。まるで探しているみたいだ。誰かの痕跡を。そう思えばこいつのことがひどく憎くなって仕方なくなる。なんで何もかもこいつに話さないといけないのだ。のんびりと俺の部屋に居座り続けるこいつに腹が立ってきてしまった。


「返せ」


俺はひったくるようにその手からDVDを奪うと思いがけず当たった手に弟がよろける。そうして背後のドアにどんっとぶつかった。その物音がした瞬間にバタバタとかけてくる音が聞こえてきて真っ青になる。ふざけんな。なんで聞こえるんだよ。聞き耳でもたてていなければこの程度の物音聞こえるはずがない。

ノックもなしに問答無用で開けられたドアの先に、恐ろしい顔をした人が立っていた。こんな人知らないと言いたいが知っている。まごうことなき俺の父だ。弟が背中をさすっているのをちらりと見やると俺の方へ大股で近寄ってくる。わずかな抵抗に数歩後ずさったが、わかっている。この安全な場所にまで攻め込まれてしまったらもう俺の逃げ場はない。

父は俺の話なんて一切聞かず、その拳をためらいなくふるった。

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