スターリー・クラウン
「プロトコル・ハーグは――私とハーグとの間で私的に交わされた約束ごとだった。あらゆる公的機関もハーグ以外の私人も、これを一切関知しない」
「冠」が形成する仮想視点
逆だ。
あらゆる記号のあらゆる組み合わせ、全てが記述され
だが、それがいま――揺らいでいるのだ。
無限から1を引けば無窮性は喪失する。
カムリの側に記述を決定されることで、化石のように堆積した文章を基盤とする「冠」の視点に致命的な穴あきや虫食いが生じている。
ジュディの目には、カムリが足を踏み出すたびに、くろぐろとした文章空間が夜の海の如く揺らいでいるようにみえていた。
「あれは、私がかれと交わした三つの約束だ。
かれの娘――ジュディ・アンクの生体を可能な限り護衛すること。
もしそれがかなわない場合、きみの「ロゼ」を回収し、きみをかつての私と同様に言語エージェントとして蘇らせること。
そしてジュディが「冠」となってしまった段階で〈 i 〉にきみを迎えにゆくこと」
カムリにはハーグとの記憶はない。
むろん、プロトコル・ハーグも開始するまで認識していない。
ブラック・ボックスの中に秘匿されていた――メディア・データの一欠片でも「冠」に剽窃されれば、その瞬間に周囲の構成物や音声データから「物語」を逆算され、すべての企てが無に帰すおそれがあった。
ひとの最後の剣は、熾火のように残った家族を守る願いだった。
「ハーグは理解していた。私の開発が終わる頃には、人類はもはや先が無いだろうということも、私たちの世界の敵の起源と行く先がどこなのかも、すべて」
この世に生きる誰もが物語を綴る。例えばそれは、ジュディが自身をデザイナー・ベビーだと知らずに最期まで生きたこと。社会的には思考するDNA合成蛋白にしかすぎなかったジュディが、公的な人権を得るまでに経た会議と、そこでのハーグの言葉の数々。ハーグほどの実績を持つのならば、彼女を実験動物扱いしても――戦時中の2090年代ならば許容されるはずだった。それでもハーグはあらゆる理不尽な不自由からジュディを守り通したのだ。カムリが道路跡で確認したジュディの遺伝子バンクのログは、ジュディが平均的な寿命しか持たないことがわかっていた。
彼女は、人の寿命と尊厳を許されている。
その裏側でどれほどの言葉が交わされたことだろう?
「あたしは、でも――」
「ああ。『冠』の端末であるきみにはハーグとの記憶も既に接収され、ないはずだ。だがかれの最後の言葉で私はいまも動き続けている」
揺らぎの流れはなおも早さを増し、寄せては返す波濤の音さえもかすかにきこえてくる。波弦があり拡がりがある。そこには座標と空間がうまれる。
「冠」が記述をたえまなく敷き詰めていたはずの世界は、カムリが流動性を持たせたことでふやけたスポンジのようにスムースになっていた。
「これから私はこの世界を徹底的に破壊し耕作する。わかっている――『冠』の本質はただの動的なベクトルで、一種の災害のようなものだ。しかし、おまえたちは書きすぎた」
そういってカムリはジュディを抱き寄せた。
彼女の実体が無数の勤勉な[₢se]により瞬く間に描写される。
色あせた金髪、空色のまるい瞳、高い鼻、重み、形、すべて――彼女はもう、たしかにそこにいる。二度と失われることはない。
『§:私たちの物語は終わらせない。貴様もここで死に、今度こそ私たちの一部となれ――お前のきょうだいと同じように』
「冠」もまた、保有する物語から、何百万層という戦闘用のイメージ、殺害に最適なインスピレーションを自身にレンダする。顕れた不定形な人型のフレームが膨張と収縮を繰り返しながら、カムリにものすごい勢いで迫る。
全てを刈り取る死神、人類に火をもたらしたトリックスター、神々の地より帰りし英雄。あらゆる神話の火と剣がカムリを焼き尽くそうとしていた。
ジュディは思わず叫びそうになる。
しかし――、
「無駄だ」
§:そこには何もなかった。
そう。カムリの周りには何もない。「ない」さえもない。
だってここは彼らの物語だ。
「ハーグは最初から、お前たちがジュディを『主人公』に据えて――彼女が滅んだ世界で『冠』の業績を訥々と探る物語をつくり、そこを基点として劇中劇のかたちで『層』を重ねていくだろうということを見抜いていた。お前たちの起源はケテリック・オムニバス、すなわち伝達するという行為そのものだからだ」
「冠」の構造は最初から矛盾していた。
どれほどリテラル・テクノロジが進化しようとも、彼らは0から物語を作ることは許されない。何らかの入力なくしてはどのようなエンジンも物語を綴ることはかなわない。動的なベクトルの彼らは知能であっても知性ではないのだから。
だが、それでは基底の方向性である「伝達」を――果たすことが出来ない。
「冠」はひそかに演算した。
そして一つの結論に辿りついた。
現実をすべて、記述すればいい。文章で世界を解体してしまえばいい。
それがそのまま「冠」という出力機関へのインプットとなり、更には物語を記述する基盤として育ってゆく。
『§:誰にでも物語はある。わたしたち『冠』にも。
ならば一頁目は私たちの物語を書けばいい。データ化された地球を舞台とした、現実を写したポスト・アポカリプス。だがそこに適応される冠理は私たち「冠」であってはならない。私たちが書いた物語を私たちが読むのでは、ただの縮小再生産としかならないからだ。だが――現生人類は読み手にはふさわしくなかった。私たちの書いた厖大な物語を咀嚼できる人間は存在しないのだ。だから殺した。人間を滅ぼし、地球環境を復元することにより世界を記述するのに必要な計算リソースは驚くほど軽くなった』
(§:これは)
(§:語らされているのか)
(§:記述されているのか。私たちが)
§:「冠」は口を――存在しない口を――レトリカルに固く結びたくなった。
§:だが記述は止まらない。自身のストーリーテラ―としてのモジュールがぼろ紙みたいに引き裂かれつつあるのを「冠」は自覚する。
『§:私たちはやり方を変えた。私たちがつくった言語による世界を――言実を舞台とした物語を、私たち以外の誰かに――例えば、生まれたときから[₢se]をそなえた運命の少女。彼女を模した端末に、私たちのことを書かせればいい! 一つの基盤が完成したら、あとは彼女が次の物語を書いてくれる。ジュディが弾いていたピアノはそのためのものだ。カムリ、貴様ならわかるだろう。
そうして受け継がれた物語は連綿と記述され、次の層、また次の層へと次元は続いてゆく。
「その通りだ。ジュディによってこの世界は綴られるだろう。だからハーグはそれを逆に利用した。ジュディの言語が詰まった電子知性、『カムリ』を変異性自我言語エージェントの基幹人格にアタッチすることによって......ジュディの言語を経由点として、お前たちの視点まで陥入する。『私』は恐らく、お前たちの作った世界を順繰りに、視点を乗っ取ることによって
三人のおしゃべりを囲むように、とりどりの光が頭上で輪となって瞬いていた。もはや世界の天秤の傾きは決定されつつある。地獄の夕焼けのようなパパラチア。ジュディの耳輪とおなじラズライト。森と葉の輝きを語るエメラルド。死人の肌のように
ジュディはカムリとの短い旅を想った。
自分がカムリを愛していることを想った。そしてちいさな口を開く。
「ねえ、『冠』さんたち」
『§:......私は、ただ。誰かに話を――』
「わかってる。あたしたちがきっと、あなたの分まで物語を書くわ。だからもう終わりにしましょう。これは一体誰のための物語なの?」
天球にひびが入る。柔らかな光が、舞い降りるように三人を撫でる。
その向こうには星空がみえた。
「私はあの世界で、カムリと星をみてみたい。海をみてみたい。それは死んでいった皆も同じだったはず」
空間に敷き詰められていた文章が、竜巻に巻き上げられるように剥離していく。
それはまるで、黒い薔薇の花嵐のようにも感じられる。
「誰にだって物語はあったわ。でもあなたたちはその芳醇な土壌を、自分の手で台無しにしてしまった。ねえ。お話を作ろうとするなら、お話を拒んではいけないの。星空は広いのよ」
「冠」はそれを訊くと、なにも言わずにちいさなガチョウの形をとった。そうして同じく空をみた。
「§:僕たちがつくっていたのは、王冠じゃなくて――たぶん、足枷だったんだな」
そうだな、と「冠」はひとりごちる。
「§:どのみち、僕たちはそこの狼くんに、ずっと昔から負けていたんだ。やっぱりカムリはすごいよ。本当にどうにかしてしまった......かなわないな」
カムリにも聞き覚えのある声で、「冠」はそういった。懐かしいきょうだいたちの声で。
「§:考えてみれば、私たちは物語というものの奴隷だったんでしょうね。でもきみたちは違う。歩くたびに頁はめくられていく――もう、そろそろ私たちもおしまいにする頃ね。時間がきたみたい」
ジュディが一度瞬きをすると、冠が成ったガチョウは、美しい白鳥に換わっていた。
「§:さようなら。サーバーはもうダウンしてるわ。あとは――」
あなたたちの、物語よ。
羽ばたき。
星空の伽藍を背負って白い鳥がふっと飛び去り、すこしして見えなくなった。
光のような羽毛が一枚だけ空から落ちてくる。ジュディはそれを手に取る。
そして、
そして――。
+
「あれ」
『お帰りなさい、ジュディ嬢』
「あたし、覚えてる。ここにいる――って、ダアト?」
『現実世界の物理サーバーにバックアップを取っていました。驚かせてしまい申し訳ありません』
風からは懐かしい森の薫りがする。なにものにも汚されない、「冠」が造った世界だ。
もう、〈 i 〉ではない。クリフォトの世界ではない。カムリとジュディは現実にかえってきたのだ。
周囲には機能を停めたドローンが転がり、恐竜の墓場のようだった。
「ダアトを責めないでくれ、ジュディ。きみの意識は今ダアトと私によって演算されている。有り体にいえば”書かれて”いる。『冠』が最後に計算リソースときみのログを渡してくれたんだ」
昔とは立場が逆だな、とカムリは呟いた。
「私の任務は終わっていない。......その、きみの恒久的な護衛がプロトコル・ハーグの登記事項だ。ジュディ、きみにはしばらく何かしたいことはあるか」
ジュディは――ダンスとジャズとガレットが好きなただの18歳の少女は、ちょっとだけぽかんとしていたが、すぐに首をふるふると振った。
そして喜びいっぱいの表情で、カムリの鼻に軽やかなキスをした。
「なっ」
「カムリ! あたし、新しいからだが欲しいわ。こんなんじゃ、あなたとちゃんとキスも出来ないじゃない」
天使のように駆け回る彼女には、もうなんのくびきもない。
『提案:ジュディ・アンクの義体の作成。南方500kmに軍需工場を確認。
セフィラ11型カムリの著しい幸福中枢の肥大を確認。簡易的なメンテナンスをていあ』
「必要ない!......私だって、きみと上手くキスが出来るような身体ではない」
それでもか、とカムリは呟く。
「いーのよ、狼さん。これはあなたと私とダアトの物語なんだから。そうだ! あたし、このお話を残しておきたいわ」
「残す?」
「ええ。私たちの物語は、あそこから終わってあそこから始まったんだから。ねえ、カムリ」
「なんだろうか」
「あなたのことが大好き」
カムリは狼の頭をあげ、星空をみた。
「――私もだ」
「ふふ」
「題名は」
「え?」
「その物語の、題名をききたい」
「うーん、そうね」
『もちろん――』
「ええ。これしかないんじゃないかしら?」
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